て、
「そのほうは全く金子《きんす》を奪《と》られた覚えはないのか。虚偽《いつわり》を申すな。たとい虚偽をもって一時を免《のが》るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代《なだい》の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽《いつわり》などを申しては、その名に対しても実に愧《は》ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数《おおく》の贔屓《ひいき》もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉《ほ》めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日《きょう》限り愛想《あいそ》を尽かして、以来は道で遭《あ》おうとも唾《つば》もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯《ひきょう》千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
かく諭《さと》したりし欣弥の声音《こわね》は、ただにその平生を識《し》れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁《うれ》わしかりし眼《まなこ》はにわかに清く輝きて、
「そんなら事実《ほんとう》を申しましょうか」
裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪《と》られました」
ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗《と》られたと申すか」
裁判長は軽《かろ》く卓《たく》を拍《う》ちて、きと白糸を視《み》たり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠《てご》めにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」
これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
検事代理村越欣弥は私情の眼《まなこ》を掩《おお》いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累《かさ》ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて
前へ
次へ
全44ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング