き者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、濶達《かったつ》豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地《いくじ》なきものとは想わざりしなり。
渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧《くじ》かれて、残柳の露に俯《ふ》したるごとく、哀れに萎《しお》れてぞ見えたる。
欣弥の眼《まなこ》は陰《ひそか》に始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年《みとせ》の昔天神橋上|月明《げつめい》のもとに、臂《ひじ》を把《と》りて壮語し、気を吐くこと虹《にじ》のごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
恩人の顔は蒼白《あおざ》めたり。その頬《ほお》は削《こ》けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌《かつはつはつ》の鉄拐《てっか》を表わせしに、今はその憔悴《しょうすい》を増すのみなりけり。
渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐《びょうじょく》に横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼《き》えたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
欣弥はこの体《てい》を見るより、すずろ憐愍《あわれ》を催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳《こぶし》を握りて眼《まなこ》を閉じぬ。
やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤《えん》を雪《すす》がんために、滔々《とうとう》数千言を陳《つら》ねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽《いんぺい》せざらんように白糸を諭《さと》せり。渠はあくまで盗難に遭《あ》いし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
検事代理はようやく閉じたりし眼《まなこ》を開くとともに、悄然《しょうぜん》として項《うなじ》を垂《た》るる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹《つつ》まず事実を申せ」
友はわずかに面《おもて》を擡《あ》げて、額越《ひたいご》しに検事代理の色を候《うかが》いぬ。渠は峻酷《しゅんこく》なる法官の威容をも
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