かんとせり。ほとんど人心地《ひとごこち》あらざるまでに恐怖したりし主婦《あるじ》は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴《あら》くれたる大の男《おのこ》にはあらで、軆度《とりなり》優しき女子《おんな》ならんとは、渠は今その正体を見て、与《くみ》しやすしと思えば、
「偸児《どろぼう》!」と呼び懸《か》けて白糸に飛び蒐《かか》りつ。
自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄《え》を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻《ね》じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬《か》み着き、片手には庖丁振り抗《あ》げて、再び柄をもて渠の脾腹《ひばら》を吃《くら》わしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴《じだたら》を踏みて、内儀はなお暴《あら》らかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭《のんど》を目懸《めが》けてただ一突きと突きたりしに、覘《ねら》いを外《はず》して肩頭《かたさき》を刎《は》ね斫《き》りたり。
内儀は白糸の懐に出刃を裹《つつ》みし片袖を撈《さぐ》り得《あ》てて、引っ掴《つか》みたるまま遁《のが》れんとするを、畳み懸けてその頭《かしら》に斫《き》り着けたり。渠はますます狂いて再び喚《わめ》かんとしたりしかば、白糸は触《あた》るを幸いめった斫《ぎ》りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐《ちしお》を見ざりき。一坪の畳は全く朱《あけ》に染みて、あるいは散り、あるいは迸《ほとばし》り、あるいはぽたぽたと滴《したた》りたる、その痕《あと》は八畳の一間にあまねく、行潦《にわたずみ》のごとき唐紅《からくれない》の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳《こぶし》を握り、歯を噛《く》い緊《し》めてのけざまに顛覆《うちかえ》りたるが、血塗《ちまぶ》れの額越《ひたいご》しに、半ば閉じたる眼《まなこ》を睨《にら》むがごとく凝《す》えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
白糸は生まれてより、いまだかかる最期《さいご》の愴惻《あさましき》を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐!
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