と聞こゆるは寝惚《ねぼ》れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣《みや》りぬ。
 灯影《ひかげ》は縁を照らして、跫音《あしおと》は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《うかが》いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿《ねまきすがた》のしどけなく、真鍮《しんちゅう》の手燭《てしょく》を翳《かざ》して、覚めやらぬ眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》かんと面《おもて》を顰《ひそ》めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸《しがい》に近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所《とこ》に寝て……どうなすっ。……」
 燈《あかし》を差し向けて、いまだその血に驚く遑《いとま》あらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝《つ》き付けたり。
 内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝《ひざ》を折り敷き、その場に打ち俯《ふ》して、がたがたと慄《ふる》いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君《おかみさん》、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
 俯して答《いら》えなき内儀の項《うなじ》を、出刃にてぺたぺたと拍《たた》けり。内儀は魂魄《たましい》も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要《い》らないんだ。百円あればいい」
 内儀はせつなき呼吸《いき》の下より、
「金子《かね》はあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
 出刃庖丁は内儀の頬《ほお》を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能《あた》わざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
 渠は立たんとすれども、その腰は挙《あ》がらざりき。されども渠はなお立たんと焦《あせ》りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌《あわ》てつ、悶《もだ》えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間《ふたま》を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需《もと》むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡《さるぐつわ》を箝《は》めてておくれ」
 渠は内儀を縛《いまし》めんとて、その細帯を解
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