たりき。
「道ならないことだ。そんな真似《まね》をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚《はじ》も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗《と》ろう。盗ってそうして死のう死のう!」
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可《ゆる》さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪《ゆら》るる小舟《おぶね》のごとく、安んじかねて行きつ、還《もど》りつ、塀ぎわに低徊《ていかい》せり。ややありて渠は鉢前《はちまえ》近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事《くせごと》を行なわんとはせざりしなり。渠《かれ》は再び沈吟せり。
良心に逐《お》われて恐惶《きょうこう》せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑《いとま》あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊《はいかい》せしとき、手水口《ちょうずぐち》を啓《ひら》きて、家内の一個《ひとり》は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍《おそ》くも知らざりけり。
鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面《おもて》を露《あら》わせり。白糸あなやと飛び退《すさ》る遑《ひま》もなく、
「偸児《どろぼう》!」と男の声は号《さけ》びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟《とどろ》けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手《めて》に閃《ひらめ》きて、縁に立てる男の胸をば、柄《つか》も透《とお》れと貫きたり。
戸を犇《ひしめ》かして、男は打ち僵《たお》れぬ。朱《あけ》に染みたるわが手を見つつ、重傷《いたで》に唸《うめ》く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦《すく》みて、わなわなと顫《ふる》いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞《ふるまい》をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪《たお》れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後《うしろ》に、
「あなた、どうなすった?」
前へ
次へ
全44ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング