《こしゃく》に障《さわ》ることばっかり陳《なら》べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁《つら》い! といって才覚のしようもなし。……」
陰々として鐘声の度《わた》るを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠《もた》せたるは、未央柳《びおうりゅう》の長く垂《た》れたる檜《ひのき》の板塀《いたべい》のもとなりき。
こはこれ、公園地内に六勝亭《ろくしょうてい》と呼べる席貸《せきが》しにて、主翁《あるじ》は富裕の隠居なれば、けっこう数寄《すき》を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
白糸が佇《たたず》みたるは、その裏口の枝折《しおり》門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖《さ》さでありければ、渠が靠《もた》るるとともに戸はおのずから内に啓《ひら》きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
渠はしばらく惘然《ぼうぜん》として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮《ねしず》まりたる気勢《けはい》なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森《しげり》」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵《いた》りぬ。
このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃《ぬす》みて他の門内に侵入するは賊の挙動《ふるまい》なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
ここに思い到《いた》りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗《とう》というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某《なにがし》らがこの手段に用いたりし記念《かたみ》なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭《かしら》を傾けたり。
良心は疾呼《しっこ》して渠を責めぬ。悪意は踴躍《ゆうやく》して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責《けんせき》に遭《あ》いては慚悔《ざんかい》し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃《たの》むべからざるを知りて、ついに迭《たが》いに闘《たたか》い
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