理に留めないけれども……」
 このとき両箇《ふたり》の眼《まなこ》は期せずして合えり。
「そうしてお母《かあ》さんには?」
「道で寄って暇乞《いとまご》いをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯《ふざけ》でないよ」
 欣弥はすでに車上にありて、
「車夫《くるまや》、どうだろう。二人乗ったら毀《こわ》れるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉《ねえ》さんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
 欣弥は手招けば、白糸は微笑《ほおえ》む。その肩を車夫はとんと拊《う》ちて、
「とうとう異《おつ》な寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。

       四

 滝の白糸は越後の国|新潟《にいがた》の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間|業《わざ》を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶《かな》わざるなきがゆえに、四方の金主《きんす》は渠《かれ》を争いて、ついに例《ためし》なき莫大《ばくだい》の給金を払うに到《いた》れり。
 渠は親もあらず、同胞《はらから》もあらず、情夫《つきもの》とてもあらざれば、一切《いっさい》の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放《かったつごうほう》の気は、この余裕あるがためにますます膨張《ぼうちょう》して、十金《じっきん》を獲《う》れば二十金《にじっきん》を散ずべき勢いをもって、得るままに撒《ま》き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難《かた》きを渠は知らざりしゆえなり。
 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越《ほうえつ》して鉄拐《てっか》となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳《いくとせ》をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわち
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