てんだね」
なお渠は緘黙《かんもく》せり。その脣《くちびる》を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄《ばてい》たちまち高く挙《あ》ぐれば、車輪はその輻《やぼね》の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾《なみ》に盪《ゆ》られて、浮沈の憂《う》き目に遭《あ》いぬ。
縦騁《しょうてい》五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動《いするぎ》はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗《おくれ》を取らざるを得ざるべきなり。憐《あわ》れむべし過度の馳※[#「(矛+攵)/馬」、第4水準2−92−92]《ちぶ》に疲れ果てたる馬は、力なげに俛《た》れたる首を聯《なら》べて、策《う》てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
乗り合いは顔を見合わせて、この謎《なぞ》を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨《またが》りたり。
魂消《たまげ》たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面《おもて》を鳩《あつ》め、あけらかんと頤《おとがい》を垂れて、おそらくは画《え》にも観《み》るべからざるこの不思議の為体《ていたらく》に眼《め》を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動《ふるまい》とを載せてましぐらに馳《は》せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復《かえ》りて響動《どよ》めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
例の老夫は頭を悼《ふ》り悼り呟《つぶや》けり。
「いや洒落《しゃれ》どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
不審の眉《まゆ》を攅《あつ》めたる前《さき》の世話人は、腕を拱《こまぬ》きつつ座中を※[#「目+句」、
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