持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
渠は気軽に御者の肩を拊《たた》きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
御者は流眄《ながしめ》に紙包みを見遣《みや》りて空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「酒手で馬は動きません」
わずかに五銭六厘を懐《ふところ》にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的《こころありげ》に御者の面《おもて》を眺《なが》めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
車は徐々として進行せり。
「戴《いただ》く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入《ちんにゅう》せんとせり。渠は固《かた》く拒《こば》みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定《きめ》の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由《わけ》がございません」
世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由《わけ》も糸瓜《へちま》もあるものかな。お客が与《くれ》るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰《もら》って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車《くるま》を抽《ぬ》いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
世話人は冷笑《あざわら》いぬ。
「そんなりっぱな口を※[#「口+世」、16−16]《き》いたって、約束が違や世話はねえ」
御者はきと振り顧《かえ》りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅《はや》いという約束だぜ」
儼然《げんぜん》として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉《ねえ》さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大《ばくだい》な酒手も奮《はず》もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
鼻|蠢《うごめ》かして世話人は御者の背《そびら》を指もて撞《つ》きぬ。渠は一言《いちごん》を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰《なじ》れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたっ
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