第4水準2−81−91]《みまわ》して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事《ただごと》じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈《か》け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常《ただ》の鼠《ねずみ》じゃあんめえと睨《にら》んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱《かか》えている身《からだ》だから、こうして安閑《あんかん》としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣《や》ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態《ざま》を見せられて、置き去りを吃《く》うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯《ふざけ》た真似《まね》をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
 奴《やっこ》は途方に暮れて、曩《さき》より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活《い》きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部《けつっぺた》を引《ひ》っ撲《ぱた》け引っ撲け」
 奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭|曳《び》きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
 腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵《ののし》る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊《あつ》まれり。渠はさんざんに苛《さいな》まれてついに涙ぐみ、身の措《お》き所に窮して、辛くも車の後《あと》に竦《すく》みたりき。乗り合いはますます躁《さわ》ぎて、敵手《あいて》なき喧嘩《けんか》に狂いぬ。
 御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞《かすみ》と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋《すが》りつ。風は※[#「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」、20−11]々《しゅうしゅう》と両腋《りょうえき》に起こりて毛髪|竪《た》ち、道はさながら河《かわ》のごとく、濁流脚下に奔注《ほんちゅう》して、身はこれ虚空を転《まろ》ぶに似たり。
 渠は実に死すべしと念《おも》いぬ。しだいに風|歇《や》み、馬|駐《とど》まると覚えて、直ちに昏倒《こんとう》して正気《しょうき》を失いぬ。これ御者が静かに
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