に乗り合いを振り落とさんとせり。
 恐怖、叫喚、騒擾《そうじょう》、地震における惨状は馬車の中《うち》に顕《あら》われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
 一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻《きんぽん》せらるる汽船の、やがて千尋《ちひろ》の底に汨没《こつぼつ》せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾《よう》々たる穏波を截《き》ると異ならざる精神をもって、その職を竭《つ》くすがごとく、従容《しょうよう》として手綱を操り、競争者に後《おく》れず前《すす》まず、隙《ひま》だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨《にら》み合いつつ推し行くさまは、この道|堪能《かんのう》の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
 されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌《あわ》て忙《ふため》きて、あまたの神と仏とは心々に祷《いの》られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶《まも》りたり。
 かくて六箇《むつ》の車輪はあたかも同一《ひとつ》の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡《ふくおか》というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲《みずか》い、客に茶を売るを例とすれども、今日《きょう》ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想《おも》いぬ。
 御者はこの店頭《みせさき》に馬を駐《とど》めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮《ふ》り、声を揚《あ》げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
 乗り合いは切歯《はがみ》をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙《すなけぶり》に裹《つつ》まれて、ついに眼界のほかに失われき。
 旅商人体《たびあきゅうどてい》の男は最も苛《いらだ》ちて、
「なんと皆さん、業肚《ごうはら》じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁《べっとう》さん、早く行《や》ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者《おやじ》はまことにはやどうも。第一この疝《せん》に障《さわ》りますのでな」
 と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫《おやじ》なり。馬は群がる蠅《はえ》と虻《あぶ》との中に優々と水飲み、奴は木蔭《こかげ》の床几《しょうぎ》に大の字なりに僵《たお》れて、むしゃむしゃと菓子を吃《く》らえり
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