たる法然頭《ほうねんあたま》はどっさりと美人の膝に枕《まくら》せり。
「あれ、あぶない!」
と美人はその肩をしかと抱《いだ》きぬ。
老夫はむくむく身を擡《もた》げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁《べっとう》さんや、もし若い衆《しゅ》さん、なんと顛覆《ひっくりかえ》るようなことはなかろうの」
御者は見も返らず、勢|籠《こ》めたる一|鞭《べん》を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
老夫は眼《め》を円《まる》くして狼狽《うろた》えぬ。
「いやさ、転《ころ》ばぬ前《さき》の杖《つえ》だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老《としより》のことだ、放《ほう》り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々《やわやわ》とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
呆《あき》れはてて老夫は呟《つぶや》けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚《あし》で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
老夫は腹だたしげに御者の面《かお》を偸視《とうし》せり。
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押《あとお》しを加えたれども、なおいまだ逮《およ》ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶《もだ》ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面《むかい》より空車《からぐるま》を挽《ひ》き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳《つなひ》きは血声《ちごえ》を振り立て、
「後生だい、手を仮《か》してくんねえか。あの瓦多《がた》馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇《ひとり》は叫べり。
血気事を好む徒《てあい》は、応と言うがままにその車を道ばたに棄《す》てて、総勢五人の車夫は揉《も》みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐《お》い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
そのとき車夫はいっせいに吶喊《とっかん》して馬を駭《おど》ろかせり。馬は懾《おび》えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさ
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