、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然《がぜん》器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀《とう》取れる高峰が右手《めて》の腕《かいな》に両手をしかと取り縋《すが》りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸《か》けて伯爵夫人は、がっくりと仰向《あおむ》きつつ、凄冷《せいれい》極《きわ》まりなき最後の眼《まなこ》に、国手《こくしゅ》をじっと瞻《みまも》りて、
「でも、あなたは、あなたは、私《わたくし》を知りますまい!」
謂うとき晩《おそ》し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼《まっさお》になりて戦《おのの》きつつ、
「忘れません」
その声、その呼吸《いき》、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑《えみ》を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣《くちびる》の色変わりたり。
そのときの二人が状《さま》、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ
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