このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。
さてはいかなる医学士も、驚破《すわ》という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表《ひょう》したりき。
看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元はその意を得て、手術台に擦《す》り寄りつ、優に膝《ひざ》のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「夫人《おくさま》、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算《かぞ》えあそばしますように」
伯爵夫人は答なし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう。
念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤《ねむりぐすり》をかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝《げし》なりませんと、いけませんそうです」
夫人は黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」と謂《い》える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。
腰元は、諭《さと》すがごとく、
「それでは夫人《おくさま》、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、
「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」
侯爵はまたかたわらより口を挟めり。
「あまり、無理をお謂やったら、姫《ひい》を連れて来て見せるがいいの。疾《はや》くよくならんでどうするものか」
「はい」
「それでは御得心でございますか」
腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭《かぶり》を掉《ふ》りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
このとき夫人の眉《まゆ》は動き、口は曲《ゆが》みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》きて、
「そんなに強《し》いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤《ねむりぐすり》は譫言《うわごと》を謂《い》うと申すから、それが
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