こわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快《なお》らんでもいい、よしてください」
 聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現《ゆめうつつ》の間に人に呟《つぶや》かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人《おっと》たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言《ことば》をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜《ふんぬん》を惹《ひ》き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎《だんこ》として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。
 伯爵は温乎《おんこ》として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
 夫人は決然たるものありき。
「何も痲酔剤《ますいざい》を嗅《か》いだからって、譫言を謂うという、極《き》まったこともなさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂う」
「もう、御免くださいまし」
 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背《そむ》かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。
 ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻《さき》にいかにしけん、ひとたびその平生を失《しっ》せしが、いまやまた自若となりたり。
 侯爵は渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでも姫《ひい》を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児《こ》のかわいさには我《が》折れよう」
 伯爵は頷きて、
「これ、綾《あや》」
「は」と腰元は振り返る。
「何を、姫を連れて来い」
 夫人は堪《たま》らず遮《さえぎ》りて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
 看護婦は窮したる微笑《えみ》を含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険《けんのん》でございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日《きょう》の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。
 看護婦はまた謂えり。
「それは夫人《おくさま》、いくら
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング