橋の上渡り来るうつくしき女の藤色の衣《きぬ》の色、あたかも藤の花|一片《ひとひら》、一片の藤の花、いといと小さく、ちらちら眺められ候ひき。
こは月のはじめより造りかけて、凱旋祭の前一日の昼すぎまでに出来上り候を、一度見たる時のことに有之《これあり》候。
夜に入ればこの巨象の両個の眼《まなこ》に電燈を灯《ひとも》し候。折から曇天《どんてん》に候ひし。一体に樹立《こだち》深く、柳松など生茂《おいしげ》りて、くらきなかに、その蒼白なる光を洩《もら》し、巨象の形は小山の如く、喬木の梢を籠《こ》めて、雲低き天に接し、朦朧《もうろう》として、公園の一方にあらはれ候時こそ怪獣は物凄《ものすさ》まじきその本色《ほんしょく》を顯《あらわ》し、雄大なる趣を備へてわれわれの眼には映じたれ。白昼はヤハリ唯毛布を以て包みなしたる山桜の妖精に他ならず候ひし。雲はいよいよ重く、夜はますます闇《くら》くなり候まま、炬《きょ》の如き一双《いっそう》の眼、暗夜に水銀の光を放ちて、この北の方《かた》三十間、小川の流《ながれ》一たび灌《そそ》ぎて、池となり候池のなかばに、五条の噴水、青竜の口よりほとばしり、なかぞらのやみをこぼれて篠《しの》つくばかり降りかかる吹上げの水を照し、相対《あいたい》して、またさきに申上候銅像の右手《めて》に提《ひっさ》げたる百錬鉄の剣に反映して、次第に黒くなりまさる漆《うるし》の如き公園の樹立《こだち》の間《なか》に言ふべからざる森厳《しんげん》の趣を呈し候、いまにも雨降り候やうなれば、人さきに立帰り申候。
三
あくれば凱旋祭の当日、人々が案じに案じたる天候は意外にもおだやかに、東雲《しののめ》より密雲破れて日光を洩《もら》し候が、午前に到りて晴れ、昼少しすぐるより天晴《あっぱれ》なる快晴となり澄《すま》し候。
さればこそ前《ぜん》申上げ候通り、ただうつくしく賑《にぎや》かに候ひし、全市の光景、何より申上げ候はむ。ここに繰返してまた単に一幅《いっぷく》わが県全市の図は、七色を以てなどりて彩られ候やうなるおもひの、筆|執《と》ればこの紙面《しめん》にも浮びてありありと見え候。いかに貴下、さやうに候はずや。黄なる、紫なる、紅《くれない》なる、いろいろの旗天を蔽《おお》ひて大鳥の群れたる如き、旗の透間《すきま》の空青き、樹々《きぎ》の葉の翠《みどり》なる、路を行く人の髪の黒き、簪《かざし》の白き、手絡《てがら》の緋《ひ》なる、帯の錦、袖《そで》の綾《あや》、薔薇《しょうび》の香《か》、伽羅《きゃら》の薫《かおり》の薫《くん》ずるなかに、この身体《からだ》一ツはさまれて、歩行《ある》くにあらず立停《たちどま》るといふにもあらで、押され押され市中《まちなか》をいきつくたびに一歩づつ式場近く進み候。横の町も、縦の町も、角も、辻も、山下も、坂の上も、隣の小路《こうじ》もただ人のけはひの轟々《ごうごう》とばかり遠波の寄するかと、ひツそりしたるなかに、あるひは高く、あるひは低く、遠くなり、近くなりて、耳底《じてい》に響き候のみ。裾《すそ》の埃《ほこり》、歩《あゆみ》の砂に、両側の二階家の欄干《らんかん》に、果しなくひろげかけたる紅の毛氈《もうせん》も白くなりて、仰げば打重《うちかさ》なる見物の男女《なんにょ》が顔も朧《おぼろ》げなる、中空にはむらむらと何にか候らむ、陽炎《かげろう》の如きもの立ち迷ひ候。
万丈の塵《ちり》の中に人の家の屋根より高き処々、中空に斑々《はんはん》として目覚《めざま》しき牡丹《ぼたん》の花の翻《ひるがえ》りて見え候。こは大なる母衣《ほろ》の上に書いたるにて、片端には彫刻したる獅子《しし》の頭《かしら》を縫《ぬ》ひつけ、片端には糸を束《つか》ねてふつさりと揃へたるを結び着け候。この尾と、その頭と、及び件《くだん》の牡丹の花描いたる母衣とを以て一頭の獅子にあひなり候。胴中には青竹を破《わ》りて曲げて環にしたるを幾処《いくところ》にか入れて、竹の両はしには屈竟《くっきょう》の壮佼《わかもの》ゐて、支へて、膨《ふく》らかに幌《ほろ》をあげをり候。頭《かしら》に一人の手して、力|逞《たく》ましきが猪首《いくび》にかかげ持ちて、朱盆の如き口を張り、またふさぎなどして威を示し候|都度《つど》、仕掛を以てカツカツと金色《こんじき》の牙《きば》の鳴るが聞え候。尾のつけもとは、ここにも竹の棹《さお》つけて支へながら、人の軒より高く突上げ、鷹揚《おうよう》に右左に振り動かし申候。何貫目やらむ尾にせる糸をば、真紅の色に染《そ》めたれば、紅の細き滝支ふる雲なき中空より逆《さかさ》におちて風に揺《ゆ》らるる趣《おもむき》見え、要するに空間に描きたる獣王の、花々しき牡丹の花衣《はなぎぬ》着けながら躍《おど》り狂ふにことならず、目覚し
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