いかばかり遠く続くぞ。谿《たに》深く、峰|遥《はるか》ならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶崖《がけ》の端へ出て、ここを魚見岬《うおみさき》とも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。
小男の頭は、この絶崖際の草の尖《さき》へ、あの、蕈《きのこ》の笠のようになって、ヌイと出た。
麓では、二人の漁夫《りょうし》が、横に寝た大魚《おおうお》をそのまま棄てて、一人は麦藁帽《むぎわらぼう》を取忘れ、一人の向顱巻《むこうはちまき》が南瓜《とうなす》かぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、畝《うね》に暗く沈んだのである。――仔細《しさい》は、魚が重くて上らない。魔ものが圧《おさ》えるかと、丸太で空《くう》を切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようとも知れぬ。腮《えら》が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲《なぐ》りつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神《ひめがみ》――明神は女体にまします――夕餉《ゆうげ》の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言《ことば》が一致して、裸体の白い娘でない、御供《ごく》を残して皈《かえ》ったのである。
蒼《あお》ざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の干《ひ》たような、自然の丘を繞《めぐ》らした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ薄明《うすあかる》い。
右斜めに、鉾形《かまぼこがた》の杉の大樹の、森々《しんしん》と虚空に茂った中に社《やしろ》がある。――こっちから、もう謹慎の意を表する状《さま》に、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、草摺《くさずり》の断《たた》れたような襤褸《ぼろ》の袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。
まず、聞け。――青苔《あおごけ》に沁《し》む風は、坂に草を吹靡《ふきなび》くより、おのずから静《しずか》ではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常盤木《ときわぎ》の落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。
のみならず。――すぐこの階《きざはし》のもとへ、灯ともしの翁《おきな》一人、立出《たちい》づるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる夜嵐《よあらし》の、やがて、颯《さっ》と吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。
啾々《しゅうしゅう》と近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠の袂《たもと》を敷いて、階《きざはし》の下に両膝《もろひざ》をついた。
目ばかり光って、碧額《へきがく》の金字《こんじ》を仰いだと思うと、拍手《かしわで》のかわりに、――片手は利かない――痩《や》せた胸を三度打った。
「願いまっしゅ。……お晩でしゅ。」
と、きゃきゃと透《とお》る、しかし、あわれな声して、地に頭《こうべ》を摺《す》りつけた。
「願いまっしゅ、お願い。お願い――」
正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕《あら》われると、ひらりと舞下《まいさが》り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点《とも》れたように灯影が映る時、八十年《やそとし》にも近かろう、皺《しわ》びた翁《おきな》の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々《なえなえ》とした禰宜《ねぎ》いでたちで、蚊脛《かずね》を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋《ひうちぶくろ》を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉烏帽子《もみえぼし》を頂いた、耳、ぼんの窪《くぼ》のはずれに、燈心はその十《と》筋|七《なな》筋の抜毛かと思う白髪《しらが》を覗《のぞ》かせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬宝珠《ぎぼしゅ》を背に控えたが。
屈《かが》むが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。――
「和郎《わろ》はの。」
「三里離れた処でしゅ。――国境《くにざかい》の、水溜りのものでございまっしゅ。」
「ほ、ほ、印旛沼《いんばぬま》、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」
「赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。」
「河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を上《のぼ》らしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。」
「神職様《かんぬしさま》、おおせでっしゅ。――自動車に轢《ひ》かれたほど、身体《からだ》に怪我《けが》はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶烏《とびからす》に負けんでしゅ。お鳥居より式台へ掛《かか》らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。
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