「ほ、ほう、しんびょう。」
 ほくほくと頷《うなず》いた。
「きものも、灰塚の森の中で、古案山子《ふるかがし》を剥《は》いだでしゅ。」
「しんびょう、しんびょう……奇特なや、忰《せがれ》。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。」
「それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。」
「この老ぼれには何も叶《かな》わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。」
「薬でないでしゅ。――敵打《かたきうち》がしたいのでっしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」
「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩《けんか》の仕返しがしたいのでっしゅ。」
「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」
「この左の手を折られたでしゅ。」
 とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、雫《しずく》の垂るのが、蓴菜《じゅんさい》に似た血のかたまりの、いまも流るるようである。
 尖《とが》った嘴《くちばし》は、疣立《いぼだ》って、なお蒼《あお》い。
「いたましげなや――何としてなあ。対手《あいて》はどこの何ものじゃの。」
「畜生!人間。」
「静《しずか》に――」
 ごぼりと咳《せ》いて、
「御前《おんまえ》じゃ。」
 しゅッと、河童は身を縮めた。
「日の今日、午頃《ひるごろ》、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌《かまどいわ》へ。――神職様《かんぬしさま》、小鮒《こぶな》、鰌《どじょう》に腹がくちい、貝も小蟹《こがに》も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端《いそばた》を、八|葉《よう》の蓮華《れんげ》に気取り、背後《うしろ》の屏風巌《びょうぶいわ》を、舟後光《ふなごこう》に真似て、円座して……翁様《おきなさま》、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹《でこぼこ》凸凹凸凹と、累《かさな》って敷く礁《いわ》を削り廻しに、漁師が、天然の生簀《いけす》、生船《いけぶね》がまえにして、魚《さかな》を貯えて置くでしゅが、鯛《たい》も鰈《かれい》も、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬《すく》い残りの小《ちゃっ》こい鰯子《いわしこ》が、チ、チ、チ、(笑う。)……青い鰭《ひれ》の行列で、巌竃《いわかまど》の簀《す》の中を、きらきらきらきら、日南《ひなた》ぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手唾《てつばき》して、……漁師が網を繕《つぐの》うでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞馴《ききな》れぬ、すずしい澄んだ女子《おなご》の声が、男に交って、崖上の岨道《そばみち》から、巌角《いわかど》を、踏んず、縋《すが》りつ、桂井《かつらい》とかいてあるでしゅ、印半纏《しるしばんてん》。」
「おお、そか、この町の旅籠《はたご》じゃよ。」
「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷《まるまげ》の年増と、その亭主らしい、長面《ながづら》の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪《べっぴん》の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清《すずし》い、甘い、情のある、その声が堪《たま》らんでしゅ。」
「はて、異な声の。」
「おららが真似るようではないでしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。」
 と、余念なさそうに頷《うなず》いた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白髪《しらが》も浮世離れして、翁《おきな》さびた風情である。
「翁様、娘は中肉にむっちりと、膚《はだ》つきが得《え》う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄《つま》をくるりと。」
「危《あぶな》やの。おぬしの前でや。」
「その脛《はぎ》の白さ、常夏《とこなつ》の花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裙《すそ》をからげたでしゅ。巌根《いわね》づたいに、鰒《あわび》、鰒、栄螺《さざえ》、栄螺。……小鰯《こいわし》の色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……お紫《むら》と云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡い膏《あぶら》も、白粉《おしろい》も、娘の匂いそのままで、膚《はだ》ざわりのただ粗《あら》い、岩に脱いだ白足袋の裡《なか》に潜って、熟《じっ》と覗いていたでしゅが。一波上るわ、足許《あしもと》へ。あれと裳《もすそ》を、脛がよれる、裳が揚る、紅《あか》い帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何と
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング