「やあ、」
 しっ、しっ、しっ。
 この血だらけの魚の現世《うつしよ》の状《さま》に似ず、梅雨の日暮の森に掛《かか》って、青瑪瑙《あおめのう》を畳んで高い、石段下を、横に、漁夫《りょうし》と魚で一列になった。
 すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を厭《いと》ってか、窪地でたちまち氾濫《あふ》れるらしい水場のせいか、一条《ひとすじ》やや広い畝《あぜ》を隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞木《しゅもく》に打着《ぶつか》った真中《まんなか》に立っている。
 御柱《みはしら》を低く覗《のぞ》いて、映画か、芝居のまねきの旗の、手拭《てぬぐい》の汚れたように、渋茶と、藍《あい》と、あわれ鰒《あわび》、小松魚《こがつお》ほどの元気もなく、棹《さお》によれよれに見えるのも、もの寂しい。
 前へ立った漁夫《りょうし》の肩が、石段を一歩出て、後《うしろ》のが脚を上げ、真中《まんなか》の大魚の鰓《あご》が、端を攀《よ》じっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、生々《なまなま》と出て、横面《よこづら》を鰭《ひれ》の血で縫おうとした。
 その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、
「無慙《むざん》や、そのざまよ。」
 と云った、眼《まなこ》がピカピカと光って、
「われも世を呪《のろ》えや。」
 と、首を振ると、耳まで被《かぶ》さった毛が、ぶるぶると動いて……腥《なまぐさ》い。
 しばらくすると、薄墨をもう一刷《ひとはけ》した、水田《みずた》の際を、おっかな吃驚《びっくり》、といった形で、漁夫《りょうし》らが屈腰《かがみごし》に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌《どじょう》が居たら押《おさ》えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁《に》げた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あか褌《ふんどし》にも恥じよかし。
「大《でっ》かい魚《さかな》ア石地蔵様に化けてはいねえか。」
 と、石投魚はそのまま石投魚で野倒《のた》れているのを、見定めながらそう云った。
 一人は石段を密《そっ》と見上げて、
「何《あに》も居ねえぞ。」
「おお、居ねえ、居めえよ、お前《めえ》。一つ劫《おど》かしておいて消えたずら。いつまでも顕《あら》われていそうな奴じゃあねえだ。」
「いまも言うた事だがや、この魚《うお》を狙《ねら》ったにしては、小《ちっこ》い奴だな。」
「それよ、海から己《おれ》たちをつけて来たものではなさそうだ。出た処《とこ》勝負に石段の上に立ちおったで。」
「己《おら》は、魚《さかな》の腸《はらわた》から抜出した怨霊《おんりょう》ではねえかと思う。」
 と掴《つか》みかけた大魚|腮《えら》から、わが声に驚いたように手を退《の》けて言った。
「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐|鼬《いたち》なら、面《つら》が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々《えぼえぼ》が立って、はあ、嘴《くちばし》が尖《とが》って、もずくのように毛が下った。」
「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描《か》いた河童《かっぱ》そっくりだ。」
 と、なぜか急に勢《いきおい》づいた。
 絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。
「畜生。今ごろは風説《うわさ》にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよかった。――漁場へ遁《に》げりゃ、それ、なかまへ饒舌《しゃべ》る。加勢と来るだ。」
「それだ。」
「村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ引返《ひっかえ》して、しめた事よ。お前《めえ》らと、己《おら》とで、河童に劫《おど》されたでは、うつむけにも仰向《あおむ》けにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。」
「そうだ、そうだ。いい事をした。――畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア打挫《ぶっくじ》いて、欠片《かけら》にバタをつけて一口だい。」
 丸太棒を抜いて取り、引きそばめて、石段を睨上《ねめあ》げたのは言うまでもない。
「コワイ」
 と、虫の声で、青蚯蚓《あおみみず》のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴《くちばし》ばかりを出して、麓《ふもと》を瞰下《みおろ》しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。
 その杉を、右の方へ、山道が樹《こ》がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱《はえみだ》れ、どくだみの香深く、薊《あざみ》が凄《すさま》じく咲き、野茨《のばら》の花の白いのも、時ならぬ黄昏《たそがれ》の仄明《ほのあか》るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢《こずえ》に響く波の音、吹当つる浜風は、葎《むぐら》を渦に廻わして東西を失わす。この坂、
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