貝の穴に河童の居る事
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)磯《いそ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|蟹《かに》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#天から4字下げ]ひょう、ひょう。
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雨を含んだ風がさっと吹いて、磯《いそ》の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累《かさな》った空合《そらあい》では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁《し》みるほどに薄寒い。……
木の葉をこぼれる雫《しずく》も冷い。……糠雨《ぬかあめ》がまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹立《こだち》は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆|蟹《かに》になりそうに見えるまで、濡々と森の梢《こずえ》を潜《くぐ》って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽《おお》われたのに、雲の影が映って暗い。
縦横《たてよこ》に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜《みずたま》りの田と、荒れた畠《はたけ》だから――農屋漁宿《のうおくぎょしゅく》、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四辺《あたり》が渺《びょう》として、底冷い靄《もや》に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔《おうま》が時になろうとする。
町屋の屋根に隠れつつ、巽《たつみ》に展《ひら》けて海がある。その反対の、山裾《やますそ》の窪《くぼ》に当る、石段の左の端に、べたりと附着《くッつ》いて、溝鼠《どぶねずみ》が這上《はいあが》ったように、ぼろを膚《はだ》に、笠も被《かぶ》らず、一本杖《いっぽんづえ》の細いのに、しがみつくように縋《すが》った。杖の尖《さき》が、肩を抽《ぬ》いて、頭の上へ突出ている、うしろ向《むき》のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。小児《こども》だか、侏儒《いっすんぼうし》だか、小男だか。ただ船虫の影の拡《ひろが》ったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。……
しょぼけ返って、蠢《うごめ》くたびに、啾々《しゅうしゅう》と陰気に幽《かすか》な音がする。腐れた肺が呼吸《いき》に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾《すそ》から雫が垂れるから、骨を絞る響《ひびき》であろう――傘の古骨が風に軋《きし》むように、啾々と不気味に聞こえる。
「しいッ、」
「やあ、」
しッ、しッ、しッ。
曳声《えいごえ》を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒《まるたんぼう》を差荷《さしにな》いに、漁夫《りょうし》の、半裸体の、がッしりした壮佼《わかもの》が二人、真中《まんなか》に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄《かぎなわ》で、尾はほとんど地摺《じずれ》である。しかも、もりで撃った生々しい裂傷《さききず》の、肉のはぜて、真向《まっこう》、腮《あご》、鰭《ひれ》の下から、たらたらと流るる鮮血《なまち》が、雨路《あまみち》に滴って、草に赤い。
私は話の中のこの魚《うお》を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大鮪《おおまぐろ》か、鮫《さめ》、鱶《ふか》でないと、ちょっとその巨大《おおき》さと凄《すさま》じさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟鱇《あんこう》がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観《み》るに過ぎぬ。実は石投魚《いしなぎ》である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞《たくま》しい人間ほどはあろう。荒海の巌礁《がんしょう》に棲《す》み、鱗《うろこ》鋭く、面顰《つらしか》んで、鰭《はた》が硬い。と見ると鯱《しゃち》に似て、彼が城の天守に金銀を鎧《よろ》った諸侯なるに対して、これは赤合羽《あかがっぱ》を絡《まと》った下郎が、蒼黒《あおぐろ》い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。
かばかりの大石投魚《おおいしなぎ》の、さて価値《ねうち》といえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちと鬱《ふさ》いだほどである。が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお菜《かず》に――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄《やけ》に煙を吐く艇《ふね》から、手鈎《てかぎ》で崖肋腹《がけあばら》へ引摺上《ひきずりあ》げた中から、そのまま跣足《はだし》で、磯の巌道《いわみち》を踏んで来たのであった。
まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝《たんぼ》添いの脛《すね》を左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚《おおうお》を揺《ゆす》って、
「しいッ、」
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