きながら子をくわえて皈《かえ》って行《ゆ》く。片翼《かたは》になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の阿媽《おっかあ》だ、と煮こごりの、とけ出したような、みじめな身の上話を茶の伽《とぎ》にしながら――よぼよぼの若旦那が――さすがは江戸前でちっともめげない。「五もくの師匠は、かわいそうだ。お前は芸は出来るのだ。」「武芸十八般一通り。」と魚屋の阿媽だけ、太刀の魚《うお》ほど反《そ》って云う。「義太夫は」「ようよう久しぶりお出しなね。」と見た処、壁にかかったのは、蝙蝠傘《こうもりがさ》と箒《ほうき》ばかり。お妻が手拍子、口|三味線《ざみせん》。
若旦那がいい声で、
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夢が、浮世か、うき世が夢か、夢ちょう里に住みながら、住めば住むなる世の中に、よしあしびきの大和路や、壺坂の片ほとり土佐町に、沢市という座頭あり。……
妻のお里はすこやかに、夫の手助け賃仕事……
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とやりはじめ、唄でお山へのぼる時分に、おでん屋へ、酒の継足しに出た、というが、二人とも炬燵の谷へ落込んで、朝まで寝た。――この挿話に用があるのは、翌朝かえりがけのお妻の態度である。りりしい眉毛を、とぼけた顔して、
「――少しばかり、若旦那。……あまりといえば、おんぼろで、伺いたくても伺えなし、伺いたくて堪《たま》らないし、損料を借りて来ましたから、肌のものまで。……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」
(お京さんから、つい去年の暮の事だといって、久しく中絶えたお妻のうわさを、最近に聞いていた。)
お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。
「さ、お待遠様。」
「難有《ありがた》い。」
「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、遣手《やりて》部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば、私は借着の寸法だけれど、花柳《はなやぎ》の手拭《てぬぐい》の切立てのを持っていますから、ずッぷり平右衛門で、一時|凌《しの》ぎと思いましたが、いい塩梅《あんばい》にころがっていましたよ。大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに引《ひっ》かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげましょう。」
「一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で歩行《ある》けそうです。――助かった。恩に被《き》ますよ。」
「とんでもない、でも、まあ、嬉しい。」
「まったく活返った。」
「ではその元気で、上のおさらいへいらっしゃるか。そこまで、おともをしてもよござんす。」
「で、演《や》っていますかね。三味線の音でも聞こえますか。」
「いいえ。」
「途中で、連中らしいのでも見ませんか。」
「人ッこ一人、……大びけ過ぎより、しんとして薄気味の悪いよう。」
「はてな、間違《まちがい》ではなかろうが、……何しろ、きみは、ちっともその方に引っかかりはないのでしたね。」
「ええ、私は風来ものの大気紛れさ、といううちにも、そうそう。」
中腰の膝へ、両肱《りょうひじ》をついた、頬杖《ほおづえ》で。
「じかではなくっても――御別懇の鴾先生の、お京さんの姉分だから、ご存じだろうと思いますが……今、芝、明舟町《あけふねちょう》で、娘さんと二人で、お弟子を取っています、お師匠さん、……お民さんのね、……まあ、先生方がお聞きなすっては馬鹿々々しいかも知れませんが、……目を据える、生命《いのち》がけの事がありましてね、その事で、ちょっと、切ッつ、はッつもやりかねないといった勢《いきおい》で、だらしがないけども、私がさ、この稽古棒(よっかけて壁にあり)を槍《やり》、鉄棒《かなぼう》で、対手《あいて》方へ出向いたんでござんすがね、――入費《いりよう》はお師匠さん持だから、乗込みは、ついその銀座の西裏まで、円タクさ。
――呆《あき》れもしない、目ざす敵《かたき》は、喫茶店、カフェーなんだから、めぐり合うも捜すもない、すぐ目前《めのまえ》に顕《あら》われました。ところがさ、商売柄、ぴかぴかきらきらで、廓《くるわ》の張店《はりみせ》を硝子張《がらすばり》の、竜宮づくりで輝かそうていったのが、むかし六郷様の裏門へぶつかったほど、一棟、真暗《まっくら》じゃありませんか。拍子抜とも、間抜けとも。……お前さん、近所で聞くとね、これが何と……いかに業体《ぎょうてい》とは申せ、いたし方もこれあるべきを、裸で、小判、……いえさ、銀貨を、何とか、いうかどで……営業おさし留めなんだって。……
出がけの意気組が意気組だから、それなり皈《かえ》るのも詰りません。隙《ひま》はあるし、蕎麦屋《そばや》でも、鮨屋《すしや》でも気に向いたら一口、こんな懐中合《ふところあい》も近来めったにない事だし、ぶらぶら歩いて来ましたところが、――ここの前さ、お前さん、」
と低いが壁天井に、目を上げつつ、
「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟《じっ》と天頂《てっぺん》の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女の姿が見えました。部屋着に、伊達巻といった風で、いい、おいらんだ。……串戯《じょうだん》じゃない。今時そんな間違いがあるものか。それとも、おさらいの看板が見えるから、衣裳《いしょう》をつけた踊子が涼んでいるのかも分らない、入って見ようと。」
「ああ、それで……」
「でござんさあね。さあ、上っても上っても。……私も可厭《いや》になってしまいましてね。とんとんと裏階子《うらばしご》を駆下りるほど、要害に馴《な》れていませんから、うろうろ気味で下りて来ると、はじめて、あなた、たった一人。」
「だれか、人が。」
「それが、あなた、こっちが極《きま》りの悪いほど、雪のように白い、後姿でもって、さっきのおいらんを、丸剥《まるはぎ》にしたようなのが、廊下にぼんやりと、少し遠見に……おや! おさらいのあとで、お湯に入る……ッてこれが、あまりないことさ。おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。」
「どこのです。」
「ここの。」
「ええ。」
「それとも隣室《となり》だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた衣《き》ものぐらいの場所にありましてね。」
信也氏は思わず内端《うちわ》に袖を払った。
「見た時は、もっとも、気もぼっとしましたから。今思うと、――ぞっこん、これが、目にしみついていますから、私が背負《しょ》っている……雪おんな……」
(や、浜町の夜更《よふけ》の雨に――
……雪おんな……
唄いさして、ふと消えた。……)
「?……雪おんな。」
「ここに背負っておりますわ。それに実《ほん》に、見事な絵でござんすわ。」
と、肩に斜《ななめ》なその紫包を、胸でといた端もきれいに、片手で捧げた肱《ひじ》に靡《なび》いて、衣紋《えもん》も褄《つま》も整然《きちん》とした。
「絵ですか、……誰の絵なんです。」
「あら、御存じない?……あなた、鴾先生のじゃありませんか。」
「ええ、鴾君が、いつね、その絵を。」
(いままだ、銀座裏で飲んでいよう、すました顔して、すくすくと銚子《ちょうし》の数を並べて。)
「つい近頃だと言いますよ。それも、わけがありましてね、私が今夜、――その酒場へ、槍、鉄棒で押掛けたといいました。やっぱりその事でおかきなすったんだけれどもね。まあ、お目にかけますわ……お待なさい。ここは、廊下で、途中だし、下へ出た処で、往来と……ああ、ちょっとこの部屋へ入りましょうか。」
「名札はかかっていないけれど、いいかな。」
「あき店《だな》さ、お前さん、田畝《たんぼ》の葦簾張《よしずばり》だ。」
と云った。
「ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに極《きま》っていますよ。」
「しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。」
「御本尊のいらっしゃる、堂、祠《ほこら》へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中のお堂さ、お前さん。……それから見りゃ、――おや開かない、鍵が掛《かか》っていますかね、この扉は。」
「無論だろうね。」
「圧《お》してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすって[#「なすって」は底本では「なすつて」]は御身分がら……お待ちなさいよ、おつな呪禁《まじない》がありますから。」
懐紙《ふところがみ》を器用に裂くと、端を捻《ひね》り、頭を抓《つま》んで、
「てるてる坊さん、ほほほ。」
すぼけた小鮹《こだこ》が、扉の鍵穴に、指で踊った。
「いけないね、坊さん一人じゃあ足りないかね。そら、もう一人、出ました。また一人、もう一人。これじゃ長屋の井戸替だ。あかないかね。そんな筈はないんだけれど、――雨をお天気にする力があるなら、掛けた鍵なぞわけなしじゃあないか。しっかりおしよ。」
ぽんと、丸めた紙の頭を順にたたくと、手だか足だか、ふらふらふらと刎《は》ねる拍子に、何だか、けばだった処が口に見えて、尖《とが》って、目皺《めじわ》で笑って、揃って騒ぐ。
「いえね、お前さん出来るわけがありますの。……その野宿で倒れた時さ――当にして行った仙台の人が、青森へ住替えたというので、取りつく島からまた流れて、なけなしの汽車のお代。盛岡とかいう処で、ふっと気がつくと、紙入がない、切符がなし。まさか、風体を視《み》たって箱仕事もしますまい。間抜けで落したと気がつくと、鉄道へ申し訳がありません。どうせ、恐入るものをさ、あとで気がつけば青森へ着いてからでも御沙汰《おさた》は同じだものを、ちっとでも里数の少い方がお詫《わび》がしいいだろうでもって、馬鹿さが堪《たま》らない。お前さん、あたふた、次の駅で下りましたがね。あわてついでに改札口だか、何だか、ふらふらと出ますとね、停車場も汽車も居なくなって、町でしょう、もう日が、とっぷり暮れている。夜道の落人、ありがたい、網の目を抜けたと思いましたが、さあ、それでも追手が掛《かか》りそうで、恐い事――つかまったって、それだけだものを、大した御法でも背いたようでね。ええ、だもんだから、腹がすけば、ぼろ撥《ばち》一|挺《ちょう》なくっても口三味線で門附けをしかねない図々しい度胸なのが、すたすたもので、町も、村も、ただ人気のない処と遁《に》げましたわ、知らぬ他国の奥州くんだり、東西も弁《わきま》えない、心細い、畷道《なわてみち》。赤い月は、野末に一つ、あるけれど、もと末も分らない、雲を落ちた水のような畝《うね》った道を、とぼついて、堪らなくなって――辻堂へ、路傍《みちばた》の芒《すすき》を分けても、手に露もかかりません。いきれの強い残暑のみぎり。
まあ、のめり込んだ御堂の中に、月にぼやっと菅笠ほどの影が出来て、大きな梟《ふくろう》――また、あっちの森にも、こっちの林にも鳴いていました――その梟が、顱巻《はちまき》をしたような、それですよ。……祭った怪しい、御本体は。――
この私だから度胸を据えて、褌《ふんどし》が紅《あか》でないばかり、おかめが背負《しょ》ったように、のめっていますと、(姉さん一緒においで。――)そういって、堂のわきの茂りの中から、大方、在方《ざいかた》の枝道を伝って出たと見えます。うす青い縞《しま》の浴衣だか単衣《ひとえ》だか、へこ帯のちょい結びで、頬被《ほおかぶり》をしたのが、菅笠をね、被《かぶ》らずに、お前さん、背中へ掛けて、小さな風呂敷包みがその下にあるらしい
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