……から脛《すね》の色の白いのが素足に草鞋《わらじ》ばきで、竹の杖を身軽について、すっと出て来てさ、お前さん。」
お妻は、踊の棒に手をかけたが、
「……実は、夜食をとりはぐって、こっちも腹がすいて堪らない。堂にお供物の赤飯でもありはしないか、とそう思って覗《のぞ》いて、お前を見たんだ、女じゃ食われない、食いもしようが可哀相《かわいそう》だ、といって笑うのが、まだ三十前、いいえ二十六七とも見える若い人。もう少し辛抱おしと、話しながら四五町、土橋を渡って、榎《えのき》と柳で暗くなると、家《うち》があります。その取着《とッつき》らしいのの表戸を、きしきし、その若い人がやるけれど、開きますまい、あきません。その時さ、お前さんちょっと捜して、藁《わら》すべを一本見つけて。」
お妻は懐紙の坊さん(その言《ことば》に従う)を一人、指につまんでいった。あと連は、掌《たなそこ》の中に、こそこそ縮まる。
「それでね、あなた、そら、かなの、※[#「耳」を崩した変体仮名「に」、136−11]形の、その字の上を、まるいように、ひょいと結んで、(お開け、お開け。)と言いますとね。」
信也氏はその顔を瞻《みまも》って、黙然として聞いたというのである。
「――苦もなく開いたわ。お前さん、中は土間で、腰掛なんか、台があって……一膳《いちぜん》めし屋というのが、腰障子の字にも見えるほど、黒い森を、柳すかしに、青く、くぐって、月あかりが、水で一|漉《こ》し漉したように映ります。
目も夜鳥ぐらい光ると見えて、すぐにね、あなた、丼、小鉢、お櫃《ひつ》を抱えて、――軒下へ、棚から落したように並べて、ね、蚊を払い(おお、飯はからだ。)(お菜漬《はづけ》だけでも、)私もそこへ取着きましたが、きざみ昆布《こぶ》、雁もどき、鰊《にしん》、焼豆府……皆、ぷんとむれ臭い。(よした、よした、大餒《おおす》えに餒えている。この温気《うんき》だと、命仕事だ。)(あなたや……私はもう我慢が出来ない、お酒はどう。)……ねえ、お前さん。――
(酒はいけない。飢《ひもじ》い時の飯粒は、天道もお目こぼし、姉さんが改札口で見つからなかったも同じだが、酒となると恐多い……)と素早いこと、さっさ、と片づけて、さ、もう一のし。
今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い農家だけに、節穴だらけ、だから、覗《のぞ》くと、よく見えました。土間の向うの、大《おおき》い炉のまわりに女が三人、男が六人、ごろんごろん寝ているのが。
若い人が、鼻紙を、と云って、私のを――そこらから拾って来た、いくらもあります、農家だから。――藁すべで、前刻《さっき》のような人形を九つ、お前さん、――そこで、その懐紙を、引裂いて、ちょっと包《くる》めた分が、白くなるから、妙に三人の女に見えるじゃありませんか。
敷居際へ、――炉端のようなおなじ恰好《かっこう》に、ごろんと順に寝かして、三度ばかり、上から掌《てのひら》で俯向《うつむ》けに撫《な》でたと思うと、もう楽なもの。
若い人が、ずかずか入って、寝ている人間の、裾《すそ》だって枕許《まくらもと》だって、構やしません。大まかに掻捜して、御飯、お香こう、お茶の土瓶まで……目刺を串ごと。旧の盆過ぎで、苧殻《おがら》がまだ沢山あるのを、へし折って、まあ、戸を開放しのまま、敷居際、燃しつけて焼くんだもの、呆れました。(門火《かどび》、門火。)なんのと、呑気《のんき》なもので、(酒だと燗《かん》だが、こいつは死人焼《しびとやき》だ。このしろでなくて仕合せ、お給仕をしようか。)……がつがつ私が食べるうちに、若い女が、一人、炉端で、うむと胸も裾もあけはだけで起上りました。あなた、その時、火の誘った夜風で、白い小さな人形がむくりと立ったじゃありませんか。ぽんと若い人が、その人形をもろに倒すと、むこうで、ばったり、今度は、うつむけにまた寝ました。
驚きましたわ。藁を捻《ひね》ったような人形でさえ、そんな業《わざ》をするんだもの。……活きたものは、いざとなると、どんな事をしようも知れない、可恐《おそろし》いようね、ええ?……――もう行《や》ってる、寝込《ねごみ》の御飯をさらって死人焼で目刺を――だって、ほほほ、まあ、そうね……
いえね、それについて、お前さん――あなたの前だけども、お友だちの奥さん、京千代さんは、半玉の時分、それはいけずの、いたずらでね、なかの妹(お民をいう)は、お人形をあつかえばって、屏風《びょうぶ》を立てて、友染の掻巻《かいまき》でおねんねさせたり、枕を二つならべたり、だったけれど、京千代と来たら、玉乗りに凝ってるから、片端《かたっぱし》から、姉様《あねさま》も殿様も、紅《あか》い糸や、太白で、ちょっとかがって、大小|護謨毬《ゴムまり》にのッけて、ジャズ騒ぎさ、――今でいえば。
主婦《おかみ》に大目玉をくった事があるんだけれど、弥生《やよい》は里の雛遊《ひなあそ》び……は常磐津《ときわづ》か何かのもんくだっけ。お雛様を飾った時、……五人|囃子《ばやし》を、毬にくッつけて、ぽんぽんぽん、ころん、くるくるなんだもの。
ところがね、真夜中さ。いいえ、二人はお座敷へ行っている……こっちはお茶がちだから、お節句だというのに、三人のいつもの部屋で寝ました処、枕許が賑《にぎや》かだから、船底を傾けて見ますとね、枕許を走ってる、長い黒髪の、白いきものが、球に乗って、……くるりと廻ったり、うしろへ反ったり、前へ辷《すべ》ったり、あら、大きな蝶が、いくつも、いくつも雪洞《ぼんぼり》の火を啣《くわ》えて踊る、ちらちら紅い袴《はかま》が、と吃驚《びっくり》すると、お囃子が雛壇で、目だの、鼓の手、笛の口が動くと思うと、ああ、遠い高い処、空の座敷で、イヤアと冴えて、太鼓の掛声、それが聞覚えた、京千代ちい姐《ねえ》。
……ものの形をしたものは、こわいように、生きていますわね。
――やがてだわね、大きな樹の下の、畷《なわて》から入口の、牛小屋だが、厩《うまや》だかで、がたんがたん、騒しい音がしました。すっと立って若い人が、その方へ行きましたっけ。もう返った時は、ひっそり。苧殻《おがら》の燃《もえ》さし、藁の人形を揃えて、くべて、逆縁ながらと、土瓶をしたんで、ざあ、ちゅうと皆消えると、夜あらしが、颯《さっ》と吹いて、月が真暗《まっくら》になって、しんとする。(行きましょう、行きましょう。)ぞっと私は凄《すご》くなって、若い人の袖を引張《ひっぱ》って、見はるかしの田畝道へ。……ほっとして、
(聞かして下さいまし、どんなお方)。
(私か。)
(あなた。)
(森の祠の、金勢明神《こんせいみょうじん》。)
(…………)
(男の勢だ。)
(キャア。)
話に聞いた振袖新造《ふりそでしんぞ》が――台のものあらしといって、大びけ過ぎに女郎屋の廊下へ出ましたと――狸に抱かれたような声を出して、夢中で小一町駆出しましたが、振向いても、立って待っても、影も形も見えません、もう朝もやが白んで来ました。
それなの、あなた、ただいま行いました、小さなこの人形たちは。」
掌《たなそこ》にのせた紙入形を凝《じっ》とためて、
「人数《にんず》が足りないかしら、もっとも九ツ坊さんと来りゃあ、恋も呪《のろい》もしますからね。」
で、口を手つだわせて、手さきで扱《しご》いて、懐紙《ふところがみ》を、蚕《かいこ》を引出すように数を殖《ふや》すと、九つのあたまが揃って、黒い扉の鍵穴へ、手足がもじゃ、もじゃ、と動く。……信也氏は脇の下をすくめて、身ぶるいした。
「だ……」
がっかりして、
「めね……ちょっと……お待ちなさいよ。」
信也氏が口をきく間もなく、
「私じゃ術がきかないんだよ。こんな時だ。」
何をする。
風呂敷を解いた。見ると、絵筒である。お妻が蓋《ふた》を抜きながら、
「雪おんなさん。」
「…………」
「あなたがいい、おばけだから、出入りは自由だわ。」
するすると早や絹地を、たちまち、水晶の五輪塔を、月影の梨の花が包んだような、扉に白く絵の姿を半ば映した。
「そりゃ、いけなかろう、お妻さん。」
鴾の作品の扱い方をとがめたのではない、お妻の迷《まよい》をいたわって、悟そうとしたのである。
「いいえ、浅草の絵馬の馬も、草を食べたというじゃありませんか。お京さんの旦那だから、身贔屓《みびいき》をするんじゃあないけれど、あれだけ有名な方の絵が、このくらいな事が出来なくっちゃ。」
絵絹に、その面影が朦朧《もうろう》と映ると見る間に、押した扉が、ツトおのずから、はずみにお妻の形を吸った。
「ああ、吃驚《びっくり》、でもよかった。」
と、室《へや》の中から、
「そら、御覧なさい、さあ、あなたも。」
どうも、あけ方が約束に背いたので、はじめから、鍵はかかっていなかったらしい。ただ信也氏が手を掛けて試みなかったのは、他に責《せめ》を転じたのではない。空室《あきま》らしい事は分っていたから。しかし、その、あえてする事をためらったのは、卑怯《ひきょう》ともいえ、消極的な道徳、いや礼儀であった。
つい信也氏も誘われた。
する事も、いう事も、かりそめながら、懐紙の九ツの坊さんで、力およばず、うつくしいばけものの、雪おんな、雪女郎の、……手も袖もまだ見ない、膚《はだ》であいた室《へや》である。
一室《ひとま》――ここへ入ってからの第二の……第三の妖《よう》は……………………
[#地から1字上げ]昭和八(一九三三)年七月
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
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