伴《つれ》があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、縋《すが》って這《は》うばかりにして、辛うじて頂上へ辿《たど》ることが出来た。立処《たちどころ》に、無熱池の水は、白き蓮華《れんげ》となって、水盤にふき溢《あふ》れた。
 ――ああ、一口、水がほしい――
 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。
 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛《か》みたいほどの雨気《あまけ》を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。
 ……その冷く快かった入口の、立看板の白く冴《さ》えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢《ひとむら》の卯《う》の花の水の栞《しおり》をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとく遥《はるか》に高い。
 気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかり※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、すぐ、それさえも茫《ぼう》となる。
 その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立《ちくりつ》した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に薄《うっす》りと色が染まって、婦《おんな》の裾《すそ》になり、白い蝙蝠《こうもり》ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。
 翼に藍鼠《あいねずみ》の縞《しま》がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷《まるまげ》が黒かった。
 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆《たか》いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼《もろは》のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧《もうろう》と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦《おんな》の肌の香《かおり》だか、芬《ぷん》とにおって酒臭い。
「酔ってますね、ほほほ。」
 蓮葉《はすは》に笑った、婦《おんな》の方から。――これが挨拶《あいさつ》らしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。
「やあ。」
 と、渡りに船の譬喩《たとえ》も恥かしい。水に縁の切れた糸瓜《へちま》が、物干の如露《じょろ》へ伸上るように身を起して、
「――御連中ですか、お師匠……」
 と言った。
 薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子《くろじゅす》豆絞りの帯が弛《ゆる》んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目《むすびめ》で、西行法師――いや、大宅光国《おおやけみつくに》という背負方《しょいかた》をして、樫《かし》であろう、手馴《てな》れて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古《けいこ》の棒をついている。とりなりの乱れた容子《ようす》が、長刀《なぎなた》に使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、引込《ひっこ》んで来たもののように見えた。
 ところが、目皺《めじわ》を寄せ、頬を刻んで、妙に眩《まぶ》しそうな顔をして、
「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」
 とのっけから、
「ちょいと旦那《だんな》、この敷石の道の工合《ぐあい》は、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……銭《ぜに》とるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」
 と片袖をわざと顔にあてて俯向《うつむ》いた、襟が白い、が白粉《おしろい》まだらで。……
「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば瞽女《ごぜ》さあね。」
 と仰向けに目をぐっと瞑《つむ》り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖《つえ》にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反《ぞ》りに胸を反らした。
「按摩《あんま》かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」
 あっと呆気《あっけ》に取られていると、
「鉄棒《かなぼう》の音に目をさまし、」
 じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を熟《じっ》と見ると、
「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」
「…………」
「それ……と、たしか松村さん。」
 心当りはまるでない。
「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」
 上脊があるから、下にしゃがんだ男を、覗《のぞ》くように傾いて、
「どうなさいました、まあ。」
「何の事はありません。」
 鉄枴ヶ峰では分るまい……
「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」
「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」
「ええ。」
 ビルジングの三階から、ほうり出されたようであ
前へ 次へ
全13ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング