る。
「しかし、師匠は。」
「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合《くちあい》や。」
 と手の甲で唇をたたきながら、
「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」
 という。が、お前さんにはいよいよ分らぬ。
「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡《たか》をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟《さんばそう》だって、どこにも、やってやしませんのさ。」
「はあ。」
 とばかり。
「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もう刎《は》ねっちまったんじゃありませんか。」
 さあ……
「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。」
「ええ、ええ、ごもっとも、お目に掛《かか》ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張《よくば》ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない筈《はず》……」
 と無雑作な中腰で、廊下に、斜《ななめ》に向合った。
「吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、仲之町《なかのちょう》をよして、浜町《はまちょう》で鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、鴾《とき》さんと、一座で、お前さんおいでなすった……」
「ああ、そう……」
 夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に芸妓《げいしゃ》の娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏――画名は遠慮しよう、実の名は淳之助《じゅんのすけ》である。
(――つい、今しがた銀座で一所に飲んでいた――)
 この場合、うっかり口へ出そうなのを、ふと控えたのは、この婦《おんな》が、見た処の容子だと、銀座へ押掛けようと言いかねまい。……
 そこの腰掛では、現に、ならんで隣合った。画会では権威だと聞く、厳《いかめ》しい審査員でありながら、厚ぼったくなく、もの柔《やわらか》にすらりとしたのが、小丼のもずくの傍《わき》で、海を飛出し、銀に光る、鰹《かつお》の皮づくりで、静《しずか》に猪口《ちょく》を傾けながら、
「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼《たで》を真青《まっさお》に噛《か》んで立ったのがその画伯であった。

「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」
「市場の、さしみの……」
 と莞爾《にっこり》する。
「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。」
「おひや。暑そうね、お前さん、真赤《まっか》になって。」
 と、扇子《おうぎ》を抜いて、風をくれつつ、
「私も暑い。赤いでしょう。」
「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」
「おひや、ありますよ。」
「有りますか。」
「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋《えびや》の屋根の天水|桶《おけ》の雪の遠見ってのがありました。」
「聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸《どうき》が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に被《き》るから、何とか一杯。」
「おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」
 とついと立って、
「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰《まこも》に水まして、いずれが、あやめ杜若《かきつばた》、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」
 扇子《おうぎ》をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。
 一あめ、さっと聞くおもい、なりも、ふりも、うっちゃった容子の中《うち》に、争われぬ手練《てだれ》が見えて、こっちは、吻《ほっ》と息を吐《つ》いた。……
 ――踊が上手《うま》い、声もよし、三味線《さみせん》はおもて芸、下方《したかた》も、笛まで出来る。しかるに芸人の自覚といった事が少しもない。顔だちも目についたが、色っぽく見えない処へ、媚《なまめか》しさなどは気《け》もなかった。その頃、銀座さんと称《とな》うる化粧問屋の大尽《だいじん》があって、新《あらた》に、「仙牡丹《せんぼたん》」という白粉《おしろい》を製し、これが大当りに当った、祝と披露を、枕橋《まくらばし》の八百松《やおまつ》で催した事がある。
 裾《すそ》を曳《ひ》いて帳場に起居《たちい
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