涼しいけれども、もの寂しい。四月の末だというのに、湿気《しっき》を含んだ夜風が、さらさらと辻惑《つじまど》いに吹迷って、卯《う》の花を乱すばかり、颯《さっ》と、その看板の面《おもて》を渡った。
 扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚《もろあし》の真黒《まっくろ》な筋のごとく、二ヶ処に洞穴《ほらあな》をふんで、冷く、不気味に突立《つった》っていたのである。
 ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ――
 が、こうした事に、もの馴《な》れない、学芸部の了簡《りょうけん》では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯《べにぢょうちん》に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子《なでしこ》などの造花に、碧紫《あおむらさき》の電燈が燦然《さんぜん》と輝いて――いらっしゃい――受附でも出張《でば》っている事、と心得違いをしていたので。
 どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。
 ――まさか、十時、まだ五分前だ――
 立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ石梯子《いしばしご》を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴《てっかい》ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。
 聞いてさえ恐れをなすのに――ここも一種の鉄枴ヶ峰である。あまつさえ、目に爽《さわや》かな、敷波の松、白妙《しろたえ》の渚《なぎさ》どころか、一毛の青いものさえない。……草も木も影もない。まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の桟敷裏《さじきうら》を折曲げて、縦に突立《つった》てたように――芸妓《げいしゃ》の温習《おさらい》にして見れば、――客の中《うち》なり、楽屋うちなり、裙模様《すそもよう》を着けた草、櫛《くし》さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。心だのみの、それが仇《あだ》で、人けがなさ過ぎると、虫も這《は》わぬ。
 心は轟《とどろ》く、脉《みゃく》は鳴る、酒の酔《えい》を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面《まわり》の壁の息《におい》を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの胴中《どうなか》を、くり抜きに、うろついている心地がするので、たださえ心臓の苦しいのが、悪酔に嘔気《はきけ》がついた。身悶《みもだ》えをすれば吐《つ》きそうだから、引返《ひっかえ》して階下《した》へ抜けるのさえむずかしい。
 突俯《つっぷ》して、(ただ仰向《あおむ》けに倒れないばかり)であった――
 で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸《どうき》を圧《おさ》え、潰《つぶ》された蜘蛛《くも》のごとくビルジングの壁際に踞《しゃが》んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画《さしえ》に似て、われながら、浅ましく、情《なさけ》ない。

「南無《なむ》、身延様《みのぶさま》――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」
 もう一息で、頂上の境内という処だから、団扇太鼓《うちわだいこ》もだらりと下げて、音も立てず、千箇寺《せんがじ》参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青く喘《あえ》ぎ喘ぎ上るのを――下山の間際に視《み》たことがある。
 思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋《つな》いで掛け、雲の桟《かけはし》に似た石段を――麓《ふもと》の旅籠屋《はたごや》で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽《あお》りつけた勢《いきおい》で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。……
 呼吸《いき》が切れ、目が眩《くら》むと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身を容《い》るるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、串戯《じょうだん》どころか、その時は、合掌に胸を緊《し》めて、真蒼《まっさお》になって、日盛《ひざかり》の蚯蚓《みみず》でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中《まんなか》で目を瞑《つぶ》ろうとしたのである。
 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。
 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命《いのち》の数珠《じゅず》が切れそうだった。が、三十分ばかり、静《じっ》としていて辛うじて起《た》った。――もっともその折は同
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