開扉一妖帖
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仰向《あおむ》け

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松村|信也《しんや》氏

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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 ただ仰向《あおむ》けに倒れなかったばかりだったそうである、松村|信也《しんや》氏――こう真面目《まじめ》に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々|極《きま》りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。
 何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗|白堊《はくあ》、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳《そび》えた滑かに巨大なる巌《いわお》を、みしと切組んだようで、芬《ぷん》と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上《よじのぼ》ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、礎《いしずえ》から貫いた階子《はしご》の、さながら只中《ただなか》に当っていた。

 浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中《まんなか》を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅《さ》すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。
 また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に踞《しゃが》みもしまい。……動悸《どうき》に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道《にがびゃくどう》のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍《まんじ》の馬の、片鐙《かたあぶみ》をはずして倒《さかさま》に落ちそうにさえ思われた。
 いや、どうもちっと大袈裟《おおげさ》だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんなにも思わなかった。が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。
 宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘《きなだ》をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い卓子《テエブル》を囲んだから、端から端へ杯が歌留多《かるた》のようにはずむにつけ、店の亭主が向顱巻《むこうはちまき》で気競《きそ》うから菊正宗の酔《えい》が一層|烈《はげ》しい。
 ――松村さん、木戸まで急用――
 いけ年《どし》を仕《つかまつ》った、学芸記者が馴《な》れない軽口の逃《にげ》口上で、帽子を引浚《ひっさら》うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口《のきぐち》を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、同伴《つれ》に催促されるまで酔潰《よいつぶ》れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、憑《つき》ものがしたようだ、怪我《けが》をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。
 が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓《げいしゃ》連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀《はげ》の爺《じい》さんが、肥《ふと》った若い妓《こ》にしなだれたのか、浅葱《あさぎ》の襟をしめつけて、雪駄《せった》をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、熱燗《あつかん》に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと咽喉《のど》へ支《つか》えさしていたのが、いちどきに、赫《かっ》となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。
 たちまち群集の波に捲《ま》かれると、大橋の橋杭《はしぐい》に打衝《ぶッつか》るような円タクに、
「――環海ビルジング」

「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」
 おやおや、会場は近かった。土橋《どばし》寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立《しょうりつ》した中にこの仄白《ほのじろ》いのが、四角に暗夜《やみ》を抽《ぬ》いた、どの窓にも光は見えず、靄《もや》の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白《まっしろ》な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く
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