をここに音信《おとず》るるものは、江戸座、雪中庵の社中か、抱一《ほういつ》上人の三代目、少くとも蔵前の成美《せいび》の末葉ででもあろうと思うと、違う。……田畝《たんぼ》に狐火が灯《とも》れた時分である。太郎|稲荷《いなり》の眷属《うから》が悪戯《いたずら》をするのが、毎晩のようで、暗い垣から「伊作、伊作」「おい、お祖母《ばあ》さん」くしゃんと嚔《くしゃみ》をして消える。「畜生め、またうせた。」これに悩まされたためでもあるまい。夜あそびをはじめて、ぐれだして、使うわ、ねだるわ。勘当ではない自分で追出《おんで》て、やがて、おかち町辺に、もぐって、かつて女たちの、玉章《たまずさ》を、きみは今……などと認《したた》めた覚えから、一時、代書人をしていた。が、くらしに足りない。なくなれば、しゃっぽで、袴《はかま》で、はた、洋服で、小浜屋の店さして、揚幕ほどではあるまい、かみ手から、ぬっと来る。
(お京さんの茶の間話に聞くのである。)
鴾の細君の弱ったのは、爺さんが、おしきせ何本かで、へべったあと、だるいだるい、うつむけに畳に伸びた蹠《あしうら》を踏ませられる。……ぴたぴたと行《や》るうちに、草臥《くたび》れるから、稽古《けいこ》の時になまけるのに、催促をされない稽古棒を持出して、息杖《いきづえ》につくのだそうで。……これで戻駕籠《もどりかご》でも思出すか、善玉の櫂《かい》でも使えば殊勝だけれども、疼痛疼痛《いててて》、「お京何をする。」……はずんで、脊骨……へ飛上る。浅草の玉乗《たまのり》に夢中だったのだそうである。もっとも、すぺりと円い禿頭《はげあたま》の、護謨《コム》、護謨《コム》としたのには、少なからず誘惑を感じたものだという。げええ。大《おおき》なおくび、――これに弱った――可厭《いや》だなあ、臭い、お爺さん、得《え》ならぬにおい、というのは手製《てづく》りの塩辛で、この爺さん、彦兵衛さん、むかし料理番の入婿だから、ただ同然で、でっち上《あげ》る。「友さん腸《はらわた》をおいて行《ゆ》きねえ。」婆さんの方でない、安達ヶ原の納戸でないから、はらごもりを割《さ》くのでない。松魚《かつお》だ、鯛だ。烏賊《いか》でも構わぬ。生麦《なまむぎ》の鰺《あじ》、佳品である。
魚友《うおとも》は意気な兄哥《あにい》で、お来さんが少し思召《おぼしめ》しがあるほどの男だが、鳶《とび》のように魚の腹を握《つか》まねばならない。その腸《わた》を二升瓶に貯える、生葱《なまねぎ》を刻んで捏《こ》ね、七色唐辛子を掻交《かきま》ぜ、掻交ぜ、片襷《かただすき》で練上げた、東海の鯤鯨《こんげい》をも吸寄すべき、恐るべき、どろどろの膏薬《こうやく》の、おはぐろ溝《どぶ》へ、黄袋の唾をしたような異味を、べろりべろり、と嘗《な》めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの熟柿《じゅくし》の口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。お来さんが、通りがかりに、ツイとお位牌《いはい》をうしろ向けにして行《ゆ》く……とも知らず、とろんこで「御先祖でえでえ。」どろりと寝て、お京や、蹠《あしうら》である。時しも、鬱金《うこん》木綿が薄よごれて、しなびた包、おちへ来て一霜《ひとしも》くらった、大角豆《ささげ》のようなのを嬉しそうに開けて、一粒々々、根附だ、玉だ、緒〆《おじめ》だと、むかしから伝われば、道楽でためた秘蔵の小まものを並べて楽しむ処へ――それ、しも手から、しゃっぽで、袴《はかま》で、代書代言伊作氏が縁台の端へ顕《あら》われるのを見ると、そりゃ、そりゃ矢藤さんがおいでになったと、慌《あわただ》しく鬱金木綿を臍《へそ》でかくす……他なし、書画骨董の大方を、野分のごとく、この長男に吹さらわれて、わずかに痩莢《やせざや》の豆ばかりここに残った所以《ゆえん》である。矢藤は小浜屋の姓である。これで見ると、廓では、人を敬遠する時、我が子を呼ぶに、名を言わず、姓をもってするらしい。……
矢藤老人――ああ、年を取った伊作翁は、小浜屋が流転の前後――もともと世功を積んだ苦労人で、万事じょさいのない処で、将棊《しょうぎ》は素人の二段の腕を持ち、碁は実際初段うてた。それ等がたよりで、隠居仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内辺の某|倶楽部《くらぶ》を預って暮したが、震災のために、立寄ったその樹の蔭を失って、のちに古女房と二人、京橋三十間堀裏のバラック建《だて》のアパアトの小使、兼番人で佗《わび》しく住んだ。身辺の寒さ寂しさよ。……霜月末の風の夜《よ》や……破蒲団《やぶれぶとん》の置炬燵《おきごたつ》に、歯の抜けた頤《あご》を埋《うず》め、この奥に目あり霞《かす》めり。――徒《いたず》らに鼻が隆《たか》く目の窪《くぼ》んだ処から、まだ娑婆気《しゃばッき》のある頃は、暖簾《のれん》にも
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