ごろからの夫婦喧嘩に、なぜ、かかさんをぶたしゃんす、もうかんにんと、ごよごよごよ、と雷の児《こ》が泣いて留める、件《くだん》の浄瑠璃《じょうるり》だけは、一生の断ちものだ、と眉にも頬にも皺《しわ》を寄せたが、のぞめば段もの端唄《はうた》といわず、前垂《まえだれ》掛けで、朗《ほがらか》に、またしめやかに、唄って聞かせるお妻なのであった。
前垂掛――そう、髪もいぼじり巻同然で、紺の筒袖《つつッぽ》で台所を手伝いながら――そう、すなわち前に言った、浜町の鳥料理の頃、鴾氏に誘われて四五|度《たび》出掛けた。お妻が、わが信也氏を知ったというはそこなのである。が、とりなりも右の通りで、ばあや、同様、と遠慮をするのを、鴾画伯に取っては、外戚《がいせき》の姉だから、座敷へ招じて盃《さかずき》をかわし、大分いけて、ほろりと酔うと、誘えば唄いもし、促せば、立って踊った。家元がどうの、流儀がどうの、合方の調子が、あのの、ものの、と七面倒に気取りはしない。口|三味線《ざみせん》で間にあって、そのまま動けば、筒袖《つつッぽ》も振袖で、かついだ割箸が、柳にしない、花に咲き、さす手の影は、じきそこの隅田の雲に、時鳥《ほととぎす》がないたのである。
それでは、おなじに、吉原を焼出されて、一所に浜町へ落汐《おちしお》か、というと、そうでない。ママ、ごよごよは出たり引いたり、ぐれたり、飲んだり、八方流転の、そして、その頃はまた落込みようが深くって、しばらく行方が知れなかった。ほども遠い、……奥沢の九品仏《くほんぶつ》へ、廓《くるわ》の講中《こうじゅう》がおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた浴衣だが、白地の手拭《てぬぐい》を吉原かぶりで、色の浅黒い、すっきり鼻の隆《たか》いのが、朱羅宇《しゅらう》の長煙草《ながぎせる》で、片靨《かたえくぼ》に煙草《たばこ》を吹かしながら田舎の媽々《かかあ》と、引解《ひっとき》ものの価《ね》の掛引をしていたのを視《み》たと言う……その直後である……浜町の鳥料理。
お妻が……言った通り、気軽に唄いもし、踊りもしたのに、一夜《あるよ》、近所から時借りの、三味線の、爪弾《つめびき》で……
[#ここから4字下げ]
丑《うし》みつの、鐘もおとなき古寺に、ばけものどしがあつまりア……
[#ここで字下げ終わり]
――おや、聞き馴《な》れぬ、と思う、うたの続きが糸に紛れた。――
[#ここから4字下げ]
きりょうも、いろも、雪おんな……
[#ここで字下げ終わり]
ずどんと鳴って、壁が揺れた。雪見を喜ぶ都会人でも、あの屋根を辷《すべ》る、軒しずれの雪の音は、凄《すさま》じいのを知って驚く……春の雨だが、ざんざ降りの、夜ふけの忍駒《しのびごま》だったから、かぶさった雪の、その落ちる、雪のその音か、と吃驚《びっくり》したが、隣の間から、小浜屋の主婦《おかみ》が襖《ふすま》をドシンと打ったのが、古家だから、床の壁まで家鳴《やなり》をするまで響いたのである。
お妻が、糸の切れたように、黙った。そうしてうつむいた。
「――魔が魅《さ》すといいますから――」
一番|鶏《どり》であろう……鶏《とり》の声が聞こえて、ぞっとした。――引手茶屋がはじめた鳥屋でないと、深更《よふけ》に聞く、鶏の声の嬉しいものでないことに、読者のお察しは、どうかと思う。
時に、あの唄は、どんな化ものが出るのだろう。鴾氏も、のちにお京さん――細君に聞いた。と、忘れたと云って教えなかった。
「――まだ小どもだったんですもの――」
浜町の鳥屋は、すぐ潰《つぶ》れた。小浜屋|一家《いっけ》は、世田ヶ谷の奥へ引込《ひっこ》んで、唄どころか、おとずれもなかったのである。
(この話の中へも、関東ビルジングの廊下へも、もうすぐ、お妻が、水を調えて降りて来よう。)
まだ少し石の段の続きがある。
――お妻とお民と京千代と、いずれも養女で、小浜屋の芸妓《げいしゃ》三人の上に、おおあねえ、すなわち、主婦《おかみ》を、お来《くる》といった――(その夜、隣から襖を叩いた人だが、)これに、伊作という弟がある。うまれからの廓《くるわ》ものといえども、見識があって、役者の下端《したっぱ》だの、幇間《ほうかん》の真似《まね》はしない。書画をたしなみ骨董《こっとう》を捻《ひね》り、俳諧を友として、内の控えの、千束の寮にかくれ住んだ。……小遣万端いずれも本家持の処、小判小粒で仕送るほどの身上でない。……両親がまだ達者で、爺《じい》さん、媼《ばあ》さんがあった、その媼さんが、刎橋《はねばし》を渡り、露地を抜けて、食べものを運ぶ例で、門へは一廻り面倒だと、裏の垣根から、「伊作、伊作」――店の都合で夜のふける事がある……「伊作、伊作」――いやしくも廓の寮の俳家である。卯の花のたえ間
前へ
次へ
全13ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング