看板にも(目あり)とかいて、煎餅《せんべい》を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの禁厭《まじない》になると、一時弘まったものである。――その目をしょぼしょぼさして、長い顔をその炬燵に据えて、いとせめて親を思出す。千束の寮のやみの夜《よ》、おぼろの夜《よ》、そぼそぼとふる小雨の夜、狐の声もしみじみと可懐《なつかし》い折から、「伊作、伊作」と女の音《ね》で、扉《とぼそ》で呼ぶ。
「婆さんや、人が来た。」「うう、お爺さん」内職の、楊枝《ようじ》を辻占《つじうら》で巻いていた古女房が、怯《おび》えた顔で――「話に聞いた魔ものではないかのう。」とおっかな吃驚《びっくり》で扉《と》を開けると、やあ、化けて来た。いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷《まるまげ》の大年増、尻尾《しっぽ》と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小紋《しまこもん》の糸が透いて、膝へ紅裏《こううら》のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎《かげろう》、ふかふかと湯気の立つ、雁《がん》もどきと、蒟蒻《こんにゃく》の煮込のおでんの皿盛を白く吐く息とともに、ふうと吹き、四合壜《しごうびん》を片手に提げて「ああ敷居が高い、敷居が高い、(鳥居さえ飛ぶ癖に)階子段《はしごだん》で息が切れた。若旦那、お久しゅう。てれかくしと、寒さ凌《しの》ぎに夜《よ》なしおでんで引掛《ひっか》けて来たけれど、おお寒い。」と穴から渡すように、丼をのせるとともに、その炬燵へ、緋《ひ》の襦袢《じゅばん》むき出しの膝で、のめり込んだのは、絶えて久しい、お妻さん。……
「――わかたなは、あんやたい――」若旦那は、ありがたいか、暖かな、あの屋台か、五音《ごいん》が乱れ、もう、よいよい染みて呂律《ろれつ》が廻らぬ。その癖、若い時から、酒は一滴もいけないのが、おでんで濃い茶に浮かれ出した。しょぼしょぼの若旦那。
さて、お妻が、流れも流れ、お落《っこ》ちも落ちた、奥州青森の裏借屋に、五もくの師匠をしていて、二十《はたち》も年下の、炭屋だか、炭焼だかの息子と出来て、東京へ舞戻り、本所の隅っ子に長屋で居食いをするうちに、この年齢《とし》で、馬鹿々々しい、二人とも、とやについて、どっと寝た。青森の親元へ沙汰《さた》をする、手当薬療、息子の腰が立つと、手が切れた。むかいに来た親は、善知鳥《うとう》、うとうと、なきながら子をくわえて皈《かえ》って行《ゆ》く。片翼《かたは》になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の阿媽《おっかあ》だ、と煮こごりの、とけ出したような、みじめな身の上話を茶の伽《とぎ》にしながら――よぼよぼの若旦那が――さすがは江戸前でちっともめげない。「五もくの師匠は、かわいそうだ。お前は芸は出来るのだ。」「武芸十八般一通り。」と魚屋の阿媽だけ、太刀の魚《うお》ほど反《そ》って云う。「義太夫は」「ようよう久しぶりお出しなね。」と見た処、壁にかかったのは、蝙蝠傘《こうもりがさ》と箒《ほうき》ばかり。お妻が手拍子、口|三味線《ざみせん》。
若旦那がいい声で、
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夢が、浮世か、うき世が夢か、夢ちょう里に住みながら、住めば住むなる世の中に、よしあしびきの大和路や、壺坂の片ほとり土佐町に、沢市という座頭あり。……
妻のお里はすこやかに、夫の手助け賃仕事……
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とやりはじめ、唄でお山へのぼる時分に、おでん屋へ、酒の継足しに出た、というが、二人とも炬燵の谷へ落込んで、朝まで寝た。――この挿話に用があるのは、翌朝かえりがけのお妻の態度である。りりしい眉毛を、とぼけた顔して、
「――少しばかり、若旦那。……あまりといえば、おんぼろで、伺いたくても伺えなし、伺いたくて堪《たま》らないし、損料を借りて来ましたから、肌のものまで。……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」
(お京さんから、つい去年の暮の事だといって、久しく中絶えたお妻のうわさを、最近に聞いていた。)
お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。
「さ、お待遠様。」
「難有《ありがた》い。」
「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、遣手《やりて》部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば、私は借着の寸法だけれど、花柳《はなやぎ》の手拭《てぬぐい》の切立てのを持っていますから、ずッぷり平右衛門で、一時|凌《しの》ぎと思いましたが、いい塩梅《あんばい》にころがっていましたよ。大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに引《ひっ》かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげ
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