絵本の春
泉鏡花

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)邸町《やしきまち》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|冥途《めいど》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しても、
−−

 もとの邸町《やしきまち》の、荒果てた土塀が今もそのままになっている。……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりの――山国で――石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条《ひとすじ》煙のように、ぼっと黄昏《たそが》れて行《ゆ》く。
 弥生《やよい》の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時《いっとき》に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿《つばき》も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗《ふき》の薹《とう》も萌《も》えていよう。特に桃の花を真先《まっさき》に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗《うららか》に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。
 二条ばかりも重《かさな》って、美しい婦《おんな》の虐《しいた》げられた――旧藩の頃にはどこでもあり来《きた》りだが――伝説があるからで。
 通道《とおりみち》というでもなし、花はこの近処《きんじょ》に名所さえあるから、わざとこんな裏小路を捜《さぐ》るものはない。日中《ひなか》もほとんど人通りはない。妙齢《としごろ》の娘でも見えようものなら、白昼といえども、それは崩れた土塀から影を顕《あら》わしたと、人を驚かすであろう。
 その癖、妙な事は、いま頃の日の暮方は、その名所の山へ、絡繹《らくえき》として、花見、遊山に出掛けるのが、この前通りの、優しい大川の小橋を渡って、ぞろぞろと帰って来る、男は膚脱《はだぬ》ぎになって、手をぐたりとのめり、女が媚《なまめ》かしい友染《ゆうぜん》の褄端折《つまばしょり》で、啣楊枝《くわえようじ》をした酔払《よっぱらい》まじりの、浮かれ浮かれた人数が、前後に揃って、この小路をぞろぞろ通るように思われる……まだその上に、小橋を渡る跫音《あしおと》が、左右の土塀へ、そこを蹈《ふ》むように、とろとろと響いて、しかもそれが手に取るように聞こえるのである。
 ――このお話をすると、いまでも私は、まざまざとその景色が目に浮ぶ。――
 ところで、いま言った古小路は、私の家から十町余りも離れていて、縁で視《なが》めても、二階から伸上っても、それに……地方の事だから、板葺《いたぶき》屋根へ上って※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しても、実は建連《たてつらな》った賑《にぎやか》な町家《まちや》に隔てられて、その方角には、橋はもとよりの事、川の流《ながれ》も見えないし、小路などは、たとい見えても、松杉の立木一本にもかくれてしまう。……第一見えそうな位置でもないのに――いま言った黄昏《たそがれ》になる頃は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門《かど》も、欄干《てすり》も、襖《ふすま》も、居る畳も、ああああ我が影も、朦朧《もうろう》と見えなくなって、国中、町中にただ一条《ひとすじ》、その桃の古小路ばかりが、漫々として波の静《しずか》な蒼海《そうかい》に、船脚を曳《ひ》いたように見える。見えつつ、面白そうな花見がえりが、ぞろぞろ橋を渡る跫音が、約束通り、とととと、どど、ごろごろと、且つ乱れてそこへ響く。……幽《かすか》に人声――女らしいのも、ほほほ、と聞こえると、緋桃《ひもも》がぱッと色に乱れて、夕暮の桜もはらはらと散りかかる。……

 直接《じか》に、そぞろにそこへ行《ゆ》き、小路へ入ると、寂しがって、気味を悪がって、誰《たれ》も通らぬ、更に人影はないのであった。
 気勢《けはい》はしつつ、……橋を渡る音も、隔《へだた》って、聞こえはしない。……

 桃も桜も、真紅《まっか》な椿も、濃い霞に包まれた、朧《おぼろ》も暗いほどの土塀の一処《ひとところ》に、石垣を攀上《よじのぼ》るかと附着《くッつ》いて、……つつじ、藤にはまだ早い、――荒庭の中を覗《のぞ》いている――絣《かすり》の筒袖を着た、頭の円い小柄な小僧の十余りなのがぽつんと見える。
 そいつは、……私だ。
 夢中でぽかんとしているから、もう、とっぷり日が暮れて塀越の花の梢《こずえ》に、朧月《おぼろづき》のやや斜《ななめ》なのが、湯上りのように、薄くほんのりとして覗《のぞ》くのも、そいつは知らないらしい。
 ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けた
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング