ような破れた木戸が、裂《きれ》めだらけに閉《とざ》してある。そこを覗いているのだが、枝ごし葉ごしの月が、ぼうとなどった白紙《しらかみ》で、木戸の肩に、「貸本」と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈《くま》を分けた月の影なら、字もただ花と莟《つぼみ》を持った、桃の一枝《ひとえだ》であろうも知れないのである。
そこへ……小路の奥の、森の覆《おお》った中から、葉をざわざわと鳴らすばかり、脊の高い、色の真白《まっしろ》な、大柄な婦《おんな》が、横町の湯の帰途《かえり》と見える、……化粧道具と、手拭《てぬぐい》を絞ったのを手にして、陽気はこれだし、のぼせもした、……微酔《ほろよい》もそのままで、ふらふらと花をみまわしつつ近づいた。
巣から落ちた木菟《みみずく》の雛《ひよ》ッ子のような小僧に対して、一種の大なる化鳥《けちょう》である。大女の、わけて櫛巻《くしまき》に無雑作に引束《ひったば》ねた黒髪の房々とした濡色と、色の白さは目覚ましい。
「おやおや……新坊。」
小僧はやっぱり夢中でいた。
「おい、新坊。」
と、手拭で頬辺《ほっぺた》を、つるりと撫《な》でる。
「あッ。」
と、肝を消して、
「まあ、小母《おば》さん。」
ベソを掻《か》いて、顔を見て、
「御免なさい。御免なさい。父《おとっ》さんに言っては可厭《いや》だよ。」
と、あわれみを乞いつつ言った。
不気味に凄《すご》い、魔の小路だというのに、婦《おんな》が一人で、湯帰りの捷径《ちかみち》を怪《あやし》んでは不可《いけな》い。……実はこの小母さんだから通ったのである。
つい、(乙)の字なりに畝《うね》った小路の、大川へ出口の小さな二階家に、独身で住《すま》って、門《かど》に周易の看板を出している、小母さんが既に魔に近い。婦《おんな》でト筮《うらない》をするのが怪しいのではない。小僧は、もの心ついた四つ五つ時分から、親たちに聞いて知っている。大女の小母さんは、娘の時に一度死んで、通夜の三日の真夜中に蘇生《よみがえ》った。その時分から酒を飲んだから酔って転寝《うたたね》でもした気でいたろう。力はあるし、棺桶《かんおけ》をめりめりと鳴らした。それが高島田だったというからなお稀有《けぶ》である。地獄も見て来たよ――極楽は、お手のものだ、とト筮《うらない》ごときは掌《たなごころ》である。且つ寺子屋仕込みで、本が読める。五経、文選《もんぜん》すらすらで、書がまた好《よ》い。一度|冥途《めいど》を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》ってからは、仏教に親《したし》んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩《てならいほうばい》で、そう毎々でもないが、時々は往来《ゆきき》をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣《や》られて、煎餅《せんべい》も貰《もら》えば、小母さんの易をト《み》る七星を刺繍《ししゅう》した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻《ゆきもど》りから、フトこのかくれた小路をも覚えたのであった。
この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪《あやし》い可恐《おそろし》いものが顕《あら》われようとも、それが、小母さんのお夥間《なかま》の気がするために、何となく心易《こころやす》くって、いつの間にか、小児《こども》の癖に、場所柄を、さして憚《はばか》らないでいたのである。が、学校をなまけて、不思議な木戸に、「かしほん」の庭を覗くのを、父親の傍輩に見つかったのは、天狗《てんぐ》に逢《あ》ったほど可恐しい。
「内へお寄り。……さあ、一緒に。」
優しく背《せな》を押したのだけれども、小僧には襟首を抓《つま》んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行《ある》いた。
「肥《ふと》っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」
と、納戸で被布《ひふ》を着て、朱の長煙管《ながぎせる》を片手に、
「新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。」
月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経|注疏《ちゅうそ》なんど本箱がずらりと並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》って、蔽《おい》のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑《のどか》に煙草《たばこ》を吸ったあとで、円い肘《ひじ》を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然《ぞっ》として震上《ふるいあが》った。
大川の瀬がさっと聞こえて、片側町の、岸の松並木に風が渡った。
「……かし本。――ろくでもない事を覚えて、此奴《こいつ》めが。こんな
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