も恋が叶《かな》い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る。)博士――まだ他に例があるのですか。
博士 (朗読す)……世の哀《あわれ》とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜《おし》まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪《あし》き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。……
公子 (眉を顰《ひそ》む。――侍女等|斉《ひと》しく不審の面色《おももち》す。)
博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶《やつ》るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美《うる》わしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限《かぎり》ある命のうち、入相《いりあい》の鐘つくころ、品《しな》かわりたる道芝の辺《ほとり》にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑《ひあぶり》に処せられまするまでを、確か江戸中|棄札《すてふだ》に槍《やり》を立てて引廻した筈《はず》と心得まするので。
公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲《かなし》みなぞしたのですか。人に惜《おし》まれ可哀《あわれ》がられて、女それ自身は大満足で、自若《じじゃく》として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵《めぐみ》の杖《しもと》、情《なさけ》の鞭《むち》だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図《ぐずぐず》に生存《いきなが》らえさせて、皺《しわ》だらけの婆《ばば》にして、その娘を終らせるが可《い》いと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋《つな》いだ、燃草《もえぐさ》は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子《ひがのこ》を燃え抜いた。緋の牡丹《ぼたん》が崩れるより、虹《にじ》が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝《こ》って白玉《はくぎょく》となる、その膚《はだえ》を、氷った雛芥子《ひなげし》の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅《くれない》の珊瑚の中に、結綿《ゆいわた》の花を咲かせているのではないか。
 男は死ななかった。存命《ながら》えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡《おす》の海月《くらげ》になった。――時々未練に娘を覗《のぞ》いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白《なまじろ》く漾《ただよ》うて失《う》する。あわれなものだ。
 娘は幸福《しあわせ》ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身《ぬきみ》の槍の刑罰が馬の左右に、その誉《ほまれ》を輝かすと同一《おんなじ》に。――博士いかがですか、僧都。
博士 しかし、しかし若様、私《わたくし》は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今《ただいま》の仰《おお》せは、それは、すべて海の中にのみ留《とど》まりまするが。
公子 (穏和に頷《うなず》く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下《あなた》がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指《ゆびさ》す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。
僧都 唯今、仰《おお》せ聞けられ承りまする内に、条理《すじみち》は弁《わきま》えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身《ぬきみ》で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。
公子 可《よし》、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴《みな》れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。
僧都 はあ。(卓子《テエブル》に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠《じゆず》にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土《めいど》に参る心得のため、檀那寺《だんなでら》の和尚《おしょう》が授けまし
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