のです。そして、後《あと》の歎《なげき》は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。
公子 じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可《よ》かった。
美女 いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵《いえくら》に代っていたのでございます。
公子 可《よし》、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀《こぼ》ち、家を焼いて、もとの破蓑《やれみの》一領、網一具の漁民となって、娘の命乞《いのちごい》をすれば可かった。
美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗《のぞ》き、屏風《びょうぶ》を見越し、壁|襖《ふすま》に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。
公子 貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合《かけあ》ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯《いそ》に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶《つや》ある甍《いらか》を、山際の月に照らさして、夥多《あまた》の奴婢《ぬひ》に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾《めかけ》に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。
美女 はい。……(恥じて首低《うなだ》る。)
公子 貴女を責《せむ》るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可《よ》い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷《ふるさと》を思うて、歎いては不可《いか》ん。悲しんでは不可んと云うのです。
美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人《うらびと》は可哀《あわれ》がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生《しょう》あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄《さかえ》と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒《あわてさわ》ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命《いのち》はある
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