》だけは保つことが出来ました。感謝状は先《ま》づそのしるしといつていいやうなもので、これを国への土産《みやげ》にすると、全国の社員は皆《みんな》満足に思ふです。既に自分の職務さへ、辛《かろ》うじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今|貴下《あなた》にお談《はな》し申すことも、お検《しら》べになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。毀誉褒貶《きよほうへん》は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあれば可《いい》。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心《てきがいしん》がどうであるのと、左様《さよう》なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
と淀《よど》みなく陳《の》べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫《とんざ》なかりき。
六
見る見る百人長は色|激《げき》して、碎《くだ》けよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと乱麻《らんま》胸を衝《つ》きて、反駁《はんばく》の緒《いとぐち》を発見《みいだ》し得ず、小鼻と、髯《ひげ》のみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、
「畜生、好《すき》なことをいつてやがらあ。」
声高《こわだか》に叫びざま、足疾《あしばや》に進出《すすみいで》て、看護員の傍《かたえ》に接し、その面《おもて》を覗《のぞ》きつつ、
「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その悪済《わるす》ましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、躰《てい》よく言抜けやうとしたつて駄目《だめ》だぜ。おいらア皆《みん》な知てるぞ、間抜《まぬけ》めい。へむ畜生、支那《チャン》の捕虜《とりこ》になるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人《とうじん》の阿魔《あま》なんぞに惚《ほ》れられやあがつて、この合《あい》の子《こ》め、手前《てめえ》、何だとか、彼《か》だとかいふけれどな、南京《なんきん》に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負《ひいき》をしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は浄玻璃《じょうはり》だぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おい皆《みんな》聞かつし、初手《しょて》はな、支那人《チャンチャン》の金満が流丸《ながれだま》を啖《くら》つて路傍《みちばた》に僵《たお》れてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、此奴《こいつ》にその家まで送らしてお遣《や》んなすつたのがはじまりだ。するとお前その支那人《チャン》を介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満の奴《やっこ》さん恩儀を思つて、無性《むしょう》に難有《ありがた》がつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、秘《かく》しきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、女《むすめ》の部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日《いつか》ばかり対向《さしむか》ひでゐるあひだに、何でもその女が惚《ほ》れたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が退《ひ》いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、酷《ひど》く吹雪《ふぶ》く日で眼も口もあかねへ雪ン中に打倒《ぶったお》れの、半分|埋《う》まつて、ひきつけてゐた婦人《おんな》があつたい。いつて見りや支那人《チャン》の片割《かたわれ》ではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて焚火《たきび》であつためて遣ると活返《いきけえ》つた李花[#「李花」に丸傍点]てえ女《むすめ》で、此奴《こいつ》がエテよ。別離苦《わかれ》に一目《ひとめ》てえんで唯《たった》一人《ひとり》駈出《かけだ》してさ、吹雪僵《ふぶきだおれ》になつたんだとよ。そりや後《あと》で分つたが、そン時あ、おいらツちが負《おぶ》つて家《うち》まで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい父親《おやじ》の何とかてえ支那の家へ出入をするから、悉《くわ》しいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり床着《とこづ》いてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気を揉《も》んで銃創《てっぽうきず》もまだすつかりよくならねえのに、此奴《こいつ》の音信《たより》を聞かうとつて、旅団本部へ日参《にっさん》だ。だからもう皆《みんな》がうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おい奴《やっこ》さむ。お前お検《しらべ》の時もそのお談話《はなし》をなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体《もってえ》ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けて遣《つか》はせとおつしやらあ、恐しい冥伽《みょうが》だぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵《チャンチャン》の介抱《かいほう》をして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、憎《にく》くてならねえ。支那《チャン》の探偵《いぬ》になるやうな奴は大和魂《やまとだましい》を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人《チャン》も同一《おんなじ》だ。どてツ腹あ蹴破《けやぶ》つて、このわたを引ずり出して、噛潰《かみつぶ》して吐出すんだい!」
「其処《そこ》だ!」と海野は一喝《いっかつ》して、はたと卓子《ていぶる》を一打《ひとうち》せり。かかりし間《あいだ》他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者《ぜっしゃ》の声を打消すばかり、熱罵《ねつば》を極めて威嚇《いかく》しつ。
楚歌《そか》一身に聚《あつま》りて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇《びう》一点の懸念《けねん》なく、いと晴々《はればれ》しき面色《おももち》にて、渠《かれ》は春昼《しゅんちゅう》寂《せき》たる時、無聊《むりょう》に堪《た》えざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、交《かわ》る交る投懸けては、その都度《つど》靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
「其処《そこ》だ。」と今|卓子《ていぶる》を打てる百人長は大に決する処ありけむ、屹《きっ》と看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、先刻《さっき》からこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴《きょうど》である、国賊である、破廉恥、無気力の人外《にんがい》である。皆《みんな》が貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は頷《うなず》きぬ。
「可《よし》、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎《かんざきあいさぶろう》。」
七
「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処《ここ》は一体|何処《どこ》だと思ふか。」
海野は太《いた》くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》しながら、
「左様《さよう》、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
顔に苔《こけ》むしたる髯《ひげ》を撫《な》でつつ、立ちはだかりたる身《み》の丈《たけ》豊かに神崎を瞰下《みお》ろしたり。
「此処はな、柳[#「柳」に丸傍点]が家だ。貴様に惚《ほ》れてゐる李花[#「李花」に丸傍点]の家だぞ。」
今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑《ほほえ》めり。
神崎は夢の裡《うち》なる面色《おももち》にてうつとりとその眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。
「ぼんやりするない。柳[#「柳」に丸傍点]が住居だ。女《むすめ》の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故《わざ》と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆《みんな》追出してしまつて、李花[#「李花」に丸傍点]はわれわれの手の内のものだ。それだけ予《あらかじ》め断つて置く、可《いい》か。
さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可《いい》、むしろ他《ほか》のことはしない方が当前《あたりまえ》だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦《たたかい》にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心《てきがいしん》を起すのは常業のない閑人《ひまじん》で、進《すすん》で国家に尽すのは好事家《ものずき》がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可《いい》、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎《せん》じ詰めた処さういふのだな。」
神崎は猶予《ため》らはで、
「左様《さよう》、自分は看護員です。」
この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。
「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」
「出来ないです。余裕があれば綿繖糸《めんざんし》を造るです。」
応答はこれにて決せり。
百人長はいふこと尽きぬ。
海野は悲痛の声を挙げて、
「駄目だ。殺しても何にもならない。可《よし》、いま一ツの手段を取らう。権《ごん》! 吉《きち》! 熊《くま》! 一件だ。」
声に応じて三名の壮佼《わかもの》は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜《かくし》にぬくめつつ、身動きもせで煙草《たばこ》をのみたる彼《か》の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠《かれ》らを室外に出《いだ》しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人《みたり》の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人|後《うしろ》より背《せな》を推《お》して、端麗《たんれい》多く世に類なき一個清国の婦人の年少《としわか》なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍《かたえ》に推据《おしす》へたる、李花[#「李花」に丸傍点]は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、爾《しか》くこの室に出でたるも恐らくその日が最初《はじめて》ならむ、長き病《やまい》に俤《おもかげ》窶《やつ》れて、寝衣《しんい》の姿なよなよしく、簪《かんざし》の花も萎《しぼ》みたる流罪《るざい》の天女《てんにょ》憐《あわれ》むべし。
「国賊!」
と呼懸けつ。百人長は猿臂《えんぴ》を伸ばして美しき犠牲《いけにえ》の、白き頸《うなじ》を掻掴《かいつか》み、その面《おもて》をば仰《の》けざまに神崎の顔に押向けぬ。
李花[#「李花」に丸傍点]は猛獣に手を取られ、毒蛇《どくじゃ》に膚《はだ》を絡《まと》はれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂《ゆうこん》半ば天に朝《ちょう》して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬《ほお》をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、俄《にわか》に総《そう》の身を震《ふる》はして、
「あ。」と一声血を絞《しぼ》れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居《しりい》にはたと僵《たお》れたり。
看護員は我にもあらで衝《つ》とその椅子より座を立ちぬ。
百人長は毛脛《けずね》をかかげて、李花[#「李花」に丸傍点]の腹部を無手《む
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