何《いか》に危険なる断崖《だんがい》の端《はし》に臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――否《いな》むしろ無邪気――の体《てい》にて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝《おし》むで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身《ふんこつさいしん》をして、夜の目も合はさない、呼吸《いき》もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴《ちょうだい》する訳にはゆかんな。道理《もっとも》だ。」
 といい懸けて、夢見る如き対手《あいて》の顔を、海野はじつと瞻《みまも》りつつ、嘲《あざ》み笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を措《お》いて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番《ひとつ》、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
 と口は和《やわ》らかにものいへども、胸に満《みち》たる不快の念は、包むにあまりて音《ね》に出《い》でぬ。
 看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
 手にせる鉛筆を納《おさむ》るとともに、衣兜《かくし》の裡《うち》をさぐりつつ、
「あ、ありました。」
 と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
 無雑作《むぞうさ》に差出《さしいだ》して、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ不可《いけ》ません。」
「いや、謹《つつし》むで、拝見する。」
 海野はことさらに感謝状を押戴《おしいただ》き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳《さしかざ》しつ。声を殺し、鳴《なり》を静め、片唾《かたず》を飲みて群《むらが》りたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。可《いい》か、支那人《チャンチャン》から礼をいつて寄越した文《ふみ》だぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓《あたま》を下げて、お辞儀をする者はない。殊《こと》に敵だ、われわれの敵たる支那人《チャンチャン》だ。支那人が礼をいつて捕虜《とりこ》を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
 いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背《うしろ》なる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長《たけたか》き人物あり。頭巾《ずきん》黒く、外套《がいとう》黒く、面《おもて》を蔽《おお》ひ、身躰《からだ》を包みて、長靴を穿《うが》ちたるが、纔《わずか》に頭《こうべ》を動かして、屹《きっ》とその感謝状に眼を注ぎつ。濃《こまや》かなる一脈《いちみゃく》の煙は渠《かれ》の唇辺《くちびる》を籠《こ》めて渦巻《うずま》きつつ葉巻《はまき》の薫《かおり》高かりけり。

       四

 百人長は向直《むきなお》りてその言《ことば》を続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく捕虜《とりこ》になつて、生命《いのち》が惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人《チャンチャン》の介抱《かいほう》をした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽して遣《や》つてな、それで生命を助かつて、阿容々々《おめおめ》と帰つて来て、剰《あまつさ》へこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
 といまだいひもはてざるに、満堂|忽《たちま》ち黙を破りて、哄《どっ》と諸声《もろごえ》をぞ立てたりける、喧轟《けんごう》名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、撲《なぐ》れと、衆口一斉|熱罵《ねつば》恫喝《どうかつ》を極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯|単身《みひとつ》なる看護員は、冷々然として椅子に恁《よ》りつ。あたりを見たる眼配《まくばり》は、深夜時計の輾《きし》る時、病室に患者を護りて、油断せざるに異《こと》ならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手を掉《ふ》りて頻《しき》りに一同を鎮《しず》むるにぞ、その命なきに前《さき》だちて決して毒手を下さざるべく、予《かね》て警《いまし》むる処やありけん、地踏※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《じだんだ》蹈《ふ》みてたけり立つをも、夥間《なかま》同志が抑制して、拳《こぶし》を押へ、腕を扼《やく》して、野分《のわけ》は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子《ていぶる》の上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼《あんな》に騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組《きぐみ》だ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂《ひっさ》いて踏むだらどうだ。さうすりや些少《ちっと》あ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴《あいつ》らが合点《がってん》しやう。さうでないと、あれでも御国《みくに》のためには、生命《いのち》も惜まない徒《てあい》だから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、可《いい》か。」
 耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が言《ことば》の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜《かくし》に納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通《ただ》ならざるに、看護員は怪む如く、
「不可《いけ》ないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは些少《ちっと》もないです。」
 いと潔くいひ放《はな》ちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、譬《たと》ひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
 海野はその答を聞くごとに、呆《あき》れもし、怒りもし、苛立《いらだ》ちもしたりけるが、真個《しんこ》天真なる状《さま》見えて言《ことば》を飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひの渋《しぶり》がちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るが可《いい》。第一敵のために虜《とりこ》にされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故《なぜ》切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、腸《はらわた》を掴《つか》み出して、敵のしやツ面《つら》へたたきつけて遣《や》るべき処だ。それも可《いい》、時と場合で捕はれないにも限らんが、撲《なぐ》られて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、呆《あき》れ果《はて》た腰抜だ。其上《それに》まだ親切に支那人《チャンチャン》の看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴《ふいちょう》もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を蒙《こうむ》つて、われわれ同胞の面汚《つらよごし》をしてゐながら、洒亜《しあ》つくで帰つて来て、感状を頂《いただ》きは何といふ心得だ。せめて土産《みやげ》に敵情でも探つて来れば、まだ言訳《いいわけ》もあるんだが、刻苦《こっく》して探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだも恕《じょ》すべきであるに、先に将校に検《しら》べられた時も、前刻《さっき》吾《おれ》が聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、其様《そんな》ことあ考へてる隙《ひま》もなかつたなんぞと、憶面《おくめん》もなくいふ如きに至つては言語同断《ごんごどうだん》といはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」

       五

「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす捕虜《とりこ》を返す法はない。しかしそれには証拠がない、強《しい》て敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして見遁《みの》がしては、我軍の元気の消長に関するから、屹《きっ》と改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の沙汰《さた》をもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、御国《みくに》のために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに慊焉《けんえん》たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、其様《そん》な国賊は、屹《きっ》と談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。可《いい》か。その悪《にく》むべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱり疚《や》ましいことはないが、些少《ちょっと》も良心が咎《とが》めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ不可《いかん》ぞ。」
 看護員は傾聴して、深くその言《ことば》を味ひつつ、黙然として身動きだもせず、良《やや》猶予《ためら》ひて言《ものい》はざりき。
 こなたはしたり顔に附入《つけい》りぬ。
「屹《きっ》と責任のある返答を、此室《ここ》にゐる皆《みんな》に聞かしてもらはう。」
 いひつつ左右を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》したり。
 軍夫の一人は叫び出《いだ》せり。「先生。」
 渠《かれ》らは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」
「撲《なぐ》つちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、魂《たましい》を据《す》へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
 と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板《ゆかいた》を踏鳴《ふみな》らす音ぞ聞こえたる。
 看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠は聊《いささか》も心に疚《や》ましきことなかりけむ、胸苦《むねぐる》しき気振《けぶり》もなく、静に海野に打向《うちむか》ひて、
「些少《ちっと》も良心に恥ぢないです。」
 軽く答へて自若《じじゃく》たりき。
「何、恥ぢない。」
 といひ返して海野は眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りたり。
「もう一度、屹《きっ》とやましい処はないか。」
 看護員は微笑《ほほえ》みながら、
「繰返すに及びません。」
 その信仰や極めて確乎《かっこ》たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳《こぶし》を握りつ。容易《たやす》くはものも得いはで唯、唯、渠《かれ》を睨《にら》まへ詰めぬ。
 時に看護員は従容《しょうよう》、
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
 いひ懸けて片頬《かたほ》笑《え》みつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁《に》げらるれば遁げるんですが、行《や》り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国《しんこく》だのといふ、左様《さよう》な名称も区別もないです。唯《ただ》病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度《ちょうど》自分が捕虜《とりこ》になつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折《なおれ》になる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面《たいめん
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