したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は頷《うなず》きぬ。
「可《よし》、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎《かんざきあいさぶろう》。」

       七

「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処《ここ》は一体|何処《どこ》だと思ふか。」
 海野は太《いた》くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》しながら、
「左様《さよう》、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
 顔に苔《こけ》むしたる髯《ひげ》を撫《な》でつつ、立ちはだかりたる身《み》の丈《たけ》豊かに神崎を瞰下《みお》ろしたり。
「此処はな、柳[#「柳」に丸傍点]が家だ。貴様に惚《ほ》れてゐる李花[#「李花」に丸傍点]の家だぞ。」
 今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑《ほほえ》めり。
 神崎は夢の裡《うち》なる面色《おももち》にてうつとりとその眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。
「ぼんやりするない。柳[#「柳」に丸傍点]が住居だ。女《むすめ》の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故《わざ》と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆《みんな》追出してしまつて、李花[#「李花」に丸傍点]はわれわれの手の内のものだ。それだけ予《あらかじ》め断つて置く、可《いい》か。
 さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可《いい》、むしろ他《ほか》のことはしない方が当前《あたりまえ》だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦《たたかい》にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心《てきがいしん》を起すのは常業のない閑人《ひまじん》で、進《すすん》で国家に尽すのは好事家《ものずき》がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可《いい》、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎《せん》じ詰めた処さういふのだな。」
 神崎は猶予《ため》らはで、
「左様《さよう》、自分は看護員です。」
 この冷かなる答を得え百人長は
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