鯔《ぼら》と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠《こ》められておいでじゃないか。何でも、恐《こわ》いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向《まむき》に見られて、奴《やっこ》は、口をむぐむぐと、顱巻《はちまき》をふらりと下げて、
「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。
「見たが可《い》い、ベソちゃんや。」
 と思わず軽く手をたたく。
「だって、だって、何だ、」
 と奴《やっこ》は口惜《くや》しそうな顔色で、
「己《おら》ぐらいな年紀《とし》で、鮪船《まぐろぶね》の漕《こ》げる奴《やつ》は沢山《たんと》ねえぜ。
 ここいらの鼻垂《はなったら》しは、よう磯《いそ》だって泳げようか。たかだか堰《せき》でめだかを極《き》めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒《ふな》を遣《や》るだ。
 浪打際といったって、一畝《ひとうね》り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽《たけ》の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様《てんとうさま》は真蒼《まっさお》だ。姉《あね》さん、凪《なぎ》の可《い》い日でそうなんだぜ。
 処を沖へ出て一つ暴風雨《しけ》と来るか、がちゃめちゃの真暗《まっくら》やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」
 と肩を怒らして大手を振った、奴《やっこ》、おまわりの真似《まね》して力む。
「じゃ、何《なん》だって、何だってお前、ベソ三なの。」
「うん、」
 たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻《はちまき》をいじくりながら、
「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」

       五

「あれさ、ちょいと、用がある、」
 と女房は呼止める。
 奴《やっこ》は遁《に》げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附《こしつき》で、
「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」
「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待《まち》ッてばねえ。」
 衝《つ》と身を起こして追おうとすると、奴《やっこ》は駈出《かけだ》した五足《いつあし》ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞《しゃが》み、立った女房の前垂《まえだれ》のあたりへ、円い頤《あご》、出額《おでこ
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