海の使者
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何心《なにごころ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三時|下《さが》り
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(例)[#ここから3字下げ]
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上
何心《なにごころ》なく、背戸《せど》の小橋《こばし》を、向こうの蘆《あし》へ渡りかけて、思わず足を留《と》めた。
不図《ふと》、鳥の鳴《なく》音《ね》がする。……いかにも優しい、しおらしい声で、きりきり、きりりりり。
その声が、直《す》ぐ耳近《みみぢか》に聞こえたが、つい目前《めさき》の樹《き》の枝や、茄子畑《なすばたけ》の垣根にした藤豆《ふじまめ》の葉蔭《はかげ》ではなく、歩行《ある》く足許《あしもと》の低い処《ところ》。
其処《そこ》で、立《た》ち佇《どま》って、ちょっと気を注《つ》けたが、もう留《や》んで寂《ひっそ》りする。――秋の彼岸過ぎ三時|下《さが》りの、西日が薄曇《うすぐも》った時であった。この秋の空ながら、まだ降りそうではない。桜山《さくらやま》の背後《うしろ》に、薄黒い雲は流れたが、玄武寺《げんむじ》の峰《みね》は浅葱色《あさぎいろ》に晴れ渡って、石を伐《き》り出した岩の膚《はだ》が、中空《なかぞら》に蒼白《あおじろ》く、底に光を帯《お》びて、月を宿《やど》していそうに見えた。
その麓《ふもと》まで見通しの、小橋《こばし》の彼方《かなた》は、一面の蘆で、出揃《でそろ》って早《は》や乱れかかった穂が、霧のように群立《むらだ》って、藁屋《わらや》を包み森を蔽《おお》うて、何物にも目を遮《さえぎ》らせず、山々の茅《かや》薄《すすき》と一連《ひとつら》に靡《なび》いて、風はないが、さやさやと何処《どこ》かで秋の暮を囁《ささや》き合う。
その蘆の根を、折れた葉が網に組み合せた、裏づたいの畦路《あぜみち》へ入ろうと思って、やがて踏《ふ》み出す、とまたきりりりりと鳴いた。
「なんだろう」
虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭《はしぐい》にでもいるらしかった。
「千鳥かしらん」
いや、磯でもなし、岩はなし、それの留まりそうな澪標《みおつくし》もない。あったにしても、こう人《ひと》近く、羽を驚かさぬ理由《わけ》はない。
汀《みぎわ》の
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