中
虎沙魚《とらはぜ》、衣沙魚《ころもはぜ》、ダボ沙魚《はぜ》も名にあるが、岡沙魚と言うのがあろうか、あっても鳴くかどうか、覚束《おぼつか》ない。
けれどもその時、ただ何《なん》となくそう思った。
久しい後《あと》で、その頃|薬研堀《やげんぼり》にいた友だちと二人で、木場《きば》から八幡様《はちまんさま》へ詣《まい》って、汐入町《しおいりちょう》を土手《どて》へ出て、永代《えいたい》へ引っ返したことがある。それも秋で、土手を通ったのは黄昏時《たそがれどき》、果てしのない一面の蘆原《あしはら》は、ただ見る水のない雲で、対方《むこう》は雲のない海である。路《みち》には処々《ところどころ》、葉の落ちた雑樹《ぞうき》が、乏《とぼ》しい粗朶《そだ》のごとく疎《まばら》に散《ち》らかって見えた。
「こういう時《とき》、こんな処《ところ》へは岡沙魚《おかはぜ》というのが出て遊ぶ」
と渠《かれ》は言った。
「岡沙魚ってなんだろう」と私《わたし》が聞いた。
「陸《おか》に棲《す》む沙魚なんです。蘆《あし》の根から這《は》い上がって、其処《そこ》らへ樹上《きのぼ》りをする……性《しょう》が魚《うお》だからね、あまり高くは不可《いけ》ません。猫柳《ねこやなぎ》の枝なぞに、ちょんと留《と》まって澄《す》ましている。人の跫音《あしおと》がするとね、ひっそりと、飛んで隠《かく》れるんです……この土手の名物だよ。……劫《こう》の経た奴《やつ》は鳴くとさ」
「なんだか化《ば》けそうだね」
「いずれ怪性《けしょう》のものです。ちょいと気味の悪いものだよ」
で、なんとなく、お伽話《とぎばなし》を聞くようで、黄昏《たそがれ》のものの気勢《けはい》が胸に染《し》みた。――なるほど、そんなものも居《い》そうに思って、ほぼその色も、黒の処へ黄味《きみ》がかって、ヒヤリとしたものらしく考えた。
後《あと》で拵《こしら》え言《ごと》、と分かったが、何故《なぜ》か、ありそうにも思われる。
それが鳴く……と独りで可笑《おか》しい。
もう、一度、今度は両手に両側の蘆を取って、ぶら下るようにして、橋の片端を拍子《ひょうし》に掛けて、トンと遣《や》る、キイと鳴る、トントン、きりりと鳴く。
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(きりりりり、
きり、から、きい、から、
きりりりり、きいから、きいから、)
[#こ
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