ただ一|艘《そう》。
「こっちの橋は。」
 間近く虹《にじ》のごとく懸《かか》っているのを縞の羽織が聞くと、船頭の答えるまでもなく紋着が、
「汐見橋《しおみばし》。」
「寂《さみ》しいな。」
 この処の角にして船が弓なりに曲った。寝息も聞えぬ小家《こいえ》あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢《はか》なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯《さっ》と靡《なび》き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚《しろさんご》の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶《のりそだ》が堆《うずたか》く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼《あお》い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。

       六

「おお、気味悪い。」と舷《ふなばた》を左へ坐りかわった縞《しま》の羽織は大いに悄気《しょげ》る。
「とっさん、何だろう。」
「これかね、寛政|子年《ねどし》の津浪《つなみ》に死骸《しがい》の固《かたま》っていた処だ。」
 正面に、
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葛飾郡《かつしかごおり》永代築地
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