りがまち》の敷居の処でちょっと屈《かが》み、件《くだん》の履物を揃えて、
「何なんですよ、蘆《あし》の湯の前まで来ると大勢立ってるんでしょう、恐しく騒いでるから聞いてみると、銀次さん許《とこ》の、あの、刺青《ほりもの》をしてるお婆さんが湯気に上《あが》ったというものですから、世話をしてね、どうもお待遠様でした。」
と、襖《ふすま》を開けてその六畳へ入ると誰も居ない、お縫は少しも怪しむ色なく、
「堪忍して下さい。だもんですから、」ずっと、長火鉢の前を悠々と斜《はす》に過ぎ、帯の間へ手を突込《つっこ》むと小さな蝦蟇口《がまぐち》を出して、ちゃらちゃらと箪笥《たんす》の上に置いた。門口《かどぐち》の方を透《すか》して、
「小僧さん、まあお上り、菊枝さん、きいちゃん。」と言って部屋の内を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、ぼんぼん時計、花瓶の菊、置床の上の雑誌、貸本が二三冊、それから自分の身体《からだ》が箪笥の前にあるばかり。
はじめて怪訝《おかし》な顔をした。
「おや、きいちゃん。」
「居やあしねえや。」と弥吉は腹ン這《ばい》になって、覗《のぞ》いている。
「弥吉どん。本当に居ないですか、菊ちゃん。」とお縫は箪笥に凭懸《よりかか》ったまま、少し身を引いて三寸ばかり開《あ》いている襖、寝間にしておく隣の長《なが》四畳のその襖に手を懸けたが、ここに見えなければいよいよ菊枝が居ないのに極《きま》るのだと思うから、気がさしたと覚しく、猶予《ためら》って、腰を据えて、筋の緊《しま》って来る真顔は淋しく、お縫は大事を取る塩梅《あんばい》に密《そっ》と押開けると、ただ中古《ちゅうぶる》の畳なり。
「あれ、」といいさまつかつかと入ったが、慌《あわただ》しく、小僧を呼んだ。
「おっ、」と答えて弥吉は突然《いきなり》飛込んで、
「どう、どう。」
「お待ちなさいよ、いえね、弥吉どん、お前来る途《みち》で逢違《あいちが》いはしないだろうね、履物はあるし、それにしちゃあ、」
呼び上げておきながら取留めたことを尋ねるまでもなく、お縫は半ば独言《ひとりごと》。蓋《ふた》のあいた柳行李《やなぎごうり》の前に立膝になり、ちょっと小首を傾けて、向うへ押して、ころりと、仰向けに蓋を取って、右手を差入れて底の方から擡《もた》げてみて、その手を返して、畳んだ着物を上から二ツ三ツ圧《おさ》えてみた。
「お嬢さん、盗賊《どろぼう》?」と弥吉は耐《たま》りかねて頓興《とんきょう》な声を出す。
「待って頂戴。」
お縫は自らおのが身を待たして、蓋を引いたままじっとして勝手許《かってもと》に閉《しま》っている一枚の障子を、その情の深い目で瞶《みつ》めたのである。
四
「弥吉どん。」
「へい、」
「おいで、」と言うや否や、ずいと立って件《くだん》の台所《だいどこ》の隔ての障子。
柱に掴《つかま》って覗《のぞ》いたから、どこへおいでることやらと、弥吉はうろうろする内に、お縫は裾《すそ》を打って、ばたばたと例の六畳へ取って返した。
両三度あちらこちら、ものに手を触れて廻ったが、台洋燈《だいランプ》を手に取るとやがてまた台所。
その袂《たもと》に触れ、手に触り、寄ったり、放れたり、筋違《すじちがい》に退《の》いたり、背後《うしろ》へ出たり、附いて廻って弥吉は、きょろきょろ、目ばかり煌《きらめ》かして黙然《だんまり》で。
お縫は額さきに洋燈《ランプ》を捧げ、血が騒ぐか細おもての顔を赤うしながら、お太鼓の帯の幅ったげに、後姿で、すっと台所へ入った。
と思うと、湿《しめり》ッけのする冷い風が、颯《さっ》と入り、洋燈の炎尖《ほさき》が下伏《したぶし》になって、ちらりと蒼《あお》く消えようとする。
はっと袖で囲ってお縫は屋根裏を仰ぐと、引窓が開《あ》いていたので、煤《すす》で真黒《まっくろ》な壁へ二条《ふたすじ》引いた白い縄を、ぐいと手繰ると、かたり。
引窓の閉まる拍子に、物音もせず、五|分《ぶ》ばかりの丸い灯は、口金から根こそぎ殺《そ》いで取ったように火屋《ほや》の外へふッとなくなる。
「厭《いや》だ、消しちまった。」
勝手口は見通しで、二十日に近い路地の月夜、どうしたろう、ここの戸は閉《しま》っておらず、右に三軒、左に二軒、両側の長屋はもう夜中で、明《あかる》い屋根あり、暗い軒あり、影は溝板《どぶいた》の処々、その家もここも寂寞《ひっそり》して、ただ一つ朗かな蚯蚓《みみず》の声が月でも聞くと思うのか、鳴いている。
この裏を行抜《ゆきぬ》けの正面、霧の綾《あや》も遮らず目の届く処に角が立った青いものの散《ちらば》ったのは、一軒飛離れて海苔粗朶《のりそだ》の垣を小さく結った小屋で剥《む》く貝の殻で、その剥身《むきみ》屋のうしろに、薄霧のか
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