かった中は、直ちに汽船の通う川である。
 ものの景色はこれのみならず、間近な軒のこっちから棹《さお》を渡して、看護婦が着る真白《まっしろ》な上衣《うわぎ》が二枚、しまい忘れたのが夜干《よぼし》になって懸《かか》っていた。
「お化《ばけ》。」
「ああ、」とばかり、お縫は胸のあたりへ颯《さっ》と月を浴びて、さし入る影のきれぎれな板敷の上へ坐ってしまうと、
「灯《あかり》を消しましたね。」とお化の暢気《のんき》さ。


     橋ぞろえ

        五

「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋《いわみばし》はもう越した、不動様の前あたりだよ、直《すぐ》に八幡様《はちまんさま》だ。」と、縞《しま》の羽織で鳥打を冠《かぶ》ったのが、胴の間《ま》に円くなって寝ている黒の紋着《もんつき》を揺り起す。
 一行三人の乗合《のりあい》で端に一人|仰向《あおむ》けになって舷《ふなばた》に肱《ひじ》を懸けたのが調子低く、
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佃《つくだ》々と急いで漕《こ》げば、
  潮がそこりて艪《ろ》が立たぬ。
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 と口吟《くちずさ》んだ。
 けれども実際この船は佃をさして漕ぐのではない。且つ潮がそこるどころの沙汰ではない。昼過《ひるすぎ》からがらりと晴上って、蛇の目の傘《からかさ》を乾かすような月夜になったが、昨夜《ゆうべ》から今朝へかけて暴風雨《あらし》があったので、大川は八|分《ぶ》の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛《たた》えている、そして早船乗《はやぶねのり》の頬冠《ほおかぶり》をした船頭は、かかる夜《よ》のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい。
 砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜《もや》ってある蛤町《はまぐりちょう》の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、※[#丸サ、1−12−69]※[#丸大、418−5]※[#「重なった「へ」/一」、屋号を示す記号、418−5]と大きく胡粉《ごふん》で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋《ほうらいばし》というのに懸《かか》った。
 月影に色ある水は橋杭《はしぐい》を巻いてちらちらと、畝《うね》って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く。
「とっさんここいらで、よく釣ってるが何が釣れる。」
 船顎、
「沙魚《はぜ》に鯔子《おぼこ》が釣れます。」
「おぼこならば釣れよう。」と縞の羽織が笑うと、舷に肱をついたのが向直って、
「何あてになるものか。」
「遣《や》って御覧《ごろう》じろ。」と橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸《なかだか》に溢《あふ》れるよう。左手《ゆんで》は洲《す》の岬《みさき》の蘆原《あしはら》まで一望|渺《びょう》たる広場《ひろっぱ》、船大工の小屋が飛々《とびとび》、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる。
「釣れる段か、こんな晩にゃあ鰻《うなぎ》が船の上を渡り越すというくらいな川じゃ。」と船頭は意気|頗《すこぶ》る昂《あが》る。
「さあ、心細いぞ。」
「一体この川は何という。」
「名はねえよ。」
「何とかありそうなものだ。」
「石見橋なら石見橋、蓬莱橋なら蓬莱橋、蛤町の河岸なら蛤河岸さ、八幡前、不動前、これが富岡門前の裏になります。」という時、小曲《こまがり》をして平清《ひらせい》の植込の下なる暗い処へ入って蔭になった。川面《かわづら》はますます明《あかる》い、船こそ数多《あまた》あるけれども動いているのはこの川にこれただ一|艘《そう》。
「こっちの橋は。」
 間近く虹《にじ》のごとく懸《かか》っているのを縞の羽織が聞くと、船頭の答えるまでもなく紋着が、
「汐見橋《しおみばし》。」
「寂《さみ》しいな。」
 この処の角にして船が弓なりに曲った。寝息も聞えぬ小家《こいえ》あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢《はか》なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯《さっ》と靡《なび》き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚《しろさんご》の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶《のりそだ》が堆《うずたか》く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼《あお》い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。

       六

「おお、気味悪い。」と舷《ふなばた》を左へ坐りかわった縞《しま》の羽織は大いに悄気《しょげ》る。
「とっさん、何だろう。」
「これかね、寛政|子年《ねどし》の津浪《つなみ》に死骸《しがい》の固《かたま》っていた処だ。」
 正面に、
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葛飾郡《かつしかごおり》永代築地
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