と鐫《え》りつけ、おもてから背後《うしろ》へ草書《はしりがき》をまわして、
 此処《このところ》寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はかりがたく、溺死《できし》の難なしというべからず、是《これ》に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡《およ》そ長さ二百八十間余の所、家居《いえい》取払い空地となし置くものなり。
 と記して傍《かたわら》に、寛政六年|甲寅《きのえとら》十二月 日とある石の記念碑である。
「ほう、水死人の、そうか、謂《い》わば土左衛門塚。」
「おっと船中にてさようなことを、」と鳥打はつむりを縮《すく》めて、
「や!」
 響くは凄《すさま》じい水の音、神川橋の下を潜《くぐ》って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流《ながれ》の声なり。
「念入《ねんいり》だ、恐しい。」と言いながら、寝返《ねがえり》の足で船底を蹴ったばかりで、未《いま》だに生死《しょうじ》のほども覚束《おぼつか》ないほど寝込んでいる連《つれ》の男をこの際、十万の味方と烈《はげ》しく揺動かして、
「起きないか起きないか、酷《ひど》く身に染みて寒くなった。」
 やがて平野橋、一本《ひともと》二本蘆の中に交《まじ》ったのが次第に洲崎のこの辺《あたり》土手は一面の薄原《すすきばら》、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についてるのは川蒸汽で縦に七|艘《そう》ばかり。
「ここでも人ッ子を見ないわ。」
「それでもちっとは娑婆《しゃば》らしくなった。」
「娑婆といやあ、とっさん、この辺で未通子《おぼこ》はどうだ。」と縞の先生|活返《いきかえ》っていやごとを謂う。
「どうだどころか、もしお前さん方、この加賀屋じゃ水から飛込む魚《うお》を食べさせるとって名代《なだい》だよ。」
「まずそこらで可《よ》し、船がぐらぐらと来て鰻の川渡りは御免|蒙《こうむ》る。」
「ここでは欄干《てすり》から這込《はいこ》みます。」
「まさか。」
「いや何ともいえない、青山辺じゃあ三階へ栗が飛込むぜ。」
「大出来!」
 船頭も哄《どっ》と笑い、また、
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佃々と急いで漕げば、
  潮がそこりて艪が立たぬ。
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 程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳《へさき》へ乗《のり》かえ、棹《さお》を引いて横づけにする、水は船底を嘗《な》めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり。
「当りますよ。」
「活きてるか、これ、」
 二度まで揺《ゆす》られても人心地のないようだった一名は、この時わけもなくむっくと起きて、真先《まっさき》に船から出たのである。
「待て、」といいつつ両人、懐をおさえ、褄《つま》を合わせ、羽織の紐《ひも》を〆《し》めなどして、履物を穿《は》いてばたばたと陸《おか》へ上《あが》って、一団《ひとかたまり》になると三人言い合せたように、
「寒い。」
「お静《しずか》に。」といって、船頭は何か取ろうとして胴の間の処へ俯向《うつむ》く。
 途端であった。
 耳許《みみもと》にドンと一発、船頭も驚いてしゃっきり立つと、目の前《さき》へ、火花が糸を引いて※[#「火+發」、422−15]《ぱっ》と散って、川面《かわづら》で消えたのが二ツ三ツ、不意に南京《なんきん》花火を揚げたのは寝ていたかの男である。
 斉《ひと》しく左右へ退《の》いて、呆気《あっけ》に取られた連《つれ》の両人《ふたり》を顧みて、呵々《からから》と笑ってものをもいわず、真先《まっさき》に立って、
 鞭声《べんせい》粛々!――


     題目船

       七

「何じゃい。」と打棄《うっちゃ》ったように忌々《いまいま》しげに呟《つぶや》いて、頬冠《ほおかぶり》を取って苦笑《にがわらい》をした、船頭は年紀《とし》六十ばかり、痩《や》せて目鼻に廉《かど》はあるが、一癖も、二癖も、額、眦《まなじり》、口許《くちもと》の皺《しわ》に隠れてしおらしい、胡麻塩《ごましお》の兀頭《はげあたま》、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居《ひとりずまい》の、七兵衛という親仁《おやじ》である。
 七兵衛――この船頭ばかりは、仕事の了《しまい》にも早船をここへ繋《つな》いで戻りはせぬ。
 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返《ひっかえ》してかの石碑の前を漕《こ》いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜《もや》っておいて上《あが》るのが例《ならい》で、風雨の烈《はげ》しい晩、休む時はさし措《お》き、年月夜ごとにきっとである。
 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、法華経第十六|寿量品《じゅりょうぼん》の偈《げ》、自我得仏来《じがとくぶつらい》というはじめから、速成就仏身《そく
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