、風邪を引くと不可《いけ》ません。」
 弥吉は親方の吩咐《いいつけ》に註を入れて、我ながら旨《うま》く言ったと思ったが、それでもなお応じないから、土間の薄暗い中をきょろきょろと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、密《そっ》と、框《かまち》に手をついて、及腰《およびごし》に、高慢な顔色《かおつき》で内を透《すか》し、
「かりん糖でござい、評判のかりん糖!」と節をつけて、
「雨が降ってもかりかりッ、」
 どんなものだ、これならば顕《あらわ》れよう、弥吉は菊枝とお縫とが居ない振《ふり》でかつぐのだと思うから、笑い出すか、噴き出すか、くすくす遣《や》るか、叱るかと、ニヤニヤ独《ひとり》で笑いながら、耳を澄《すま》したけれども沙汰《さた》がない、時計の音が一分ずつ柱を刻んで、潮《うしお》の退《ひ》くように鉄瓶の沸《に》え止《や》む響《ひびき》、心着けば人気勢《ひとけはい》がしないのである。
「可笑《おか》しいな、」と独言《ひとりごと》をしたが、念晴しにもう一ツ喚《わめ》いてみた。
「へい、かりん糖でござい。」
 それでも寂寞《ひっそり》、気のせいか灯《あかり》も陰気らしく、立ってる土間は暗いから、嚔《くさめ》を仕損なったような変な目色《めつき》で弥吉は飛込んだ時とは打って変り、ちと悄気《しょげ》た形で格子戸を出たが、後を閉めもせず、そのままには帰らないで、溝伝いにちょうど戸外《おもて》に向った六畳の出窓の前へ来て、背後向《うしろむき》に倚《よ》りかかって、前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、ぼんやりする。
 がらがらと通ったのは三台ばかりの威勢の可《よ》い腕車《くるま》、中に合乗《あいのり》が一台。
「ええ、驚かしゃあがるな。」と年紀《とし》には肖《に》ない口を利いて、大福餅が食べたそうに懐中《ふところ》に手を入れて、貧乏ゆるぎというのを行《や》る。
 処へ入乱れて三四人の跫音《あしおと》、声高にものを言い合いながら、早足で近《ちかづ》いて、江崎の前へ来るとちょっと淀《よど》み、
「どうもお嬢さん難有《ありがと》うございました。」こういったのは豆腐屋の女房《かみさん》で、
「飛んだお手数でしたね。」
「お蔭様だ。」と留《とめ》という紺屋の職人が居る、魚勘《うおかん》の親仁《おやじ》が居る、いずれも口々。
 中に挟《はさま》ったのが看護婦のお縫で、
「どういたしまして、誰方《どなた》も御苦労様、御免なさいまし。」
「さようなら。」
「お休み。」
 互に言葉を交《かわ》したが、連《つれ》の三人はそれなり分れた。
 ちょっと彳《たたず》んで見送るがごとくにする、お縫は縞物《しまもの》の不断着に帯をお太鼓にちゃんと結んで、白足袋を穿《は》いているさえあるに、髪が夜会結《やかいむすび》。一体ちょん髷《まげ》より夏冬の帽子に目を着けるほどの、土地柄に珍しい扮装《なり》であるから、新造の娘とは知っていても、称《とな》えるにお嬢様をもってする。
 お縫は出窓の処に立っている弥吉には目もくれず、踵《くびす》を返すと何か忙《せわ》しらしく入ろうとしたが、格子も障子も突抜けに開《あけ》ッ放し。思わず猶予《ためら》って振返った。
「お帰んなさい。」
「おや、待乳屋さんの、」と唐突《だしぬけ》に驚く間もあらせず、
「菊枝さんはどうしました。」
「お帰んなすったんですか。」
 いささか見当が違っている。
「病気揚句だしもうお帰んなさいって、へい、迎いに来たんで。」
「どうかなさいましたか。」と深切なものいいで、門口《かどぐち》に立って尋ねるのである。
 小僧は息をはずませて、
「一所に出懸けたんじゃあないの。」
「いいえ。」


     柳行李

       三

「へい、おかしいな、だって内にゃあ居ませんぜ。」
「なに居ないことがありますか、かつがれたんでしょう、呼んで見たのかね。」
「呼びました、喚《わめ》いたんで、かりん糖の仮声《こわいろ》まで使ったんだけれど。」
 お縫は莞爾《にっこり》して、
「そんな串戯《じょうだん》をするから返事をしないんだよ。まあお入んなさい、御苦労様でした。」と落着いて格子戸を潜《くぐ》ったが、土間を透《すか》すと緋《ひ》の天鵝絨《とうてん》の緒の、小町下駄を揃えて脱いであるのに屹《きっ》と目を着け、
「御覧、履物があるじゃあないか、何を慌ててるんだね。」
 弥吉は後について首を突込《つっこ》み、
「や、そいつあ気がつかなかったい。」
「今日はね河岸《かし》へ大層着いたそうで、鮪《まぐろ》の鮮《あたら》しいのがあるからお好《すき》な赤いのをと思って菊《きい》ちゃんを一人ぼっちにして、角の喜の字へ行《ゆ》くとね、帰りがけにお前、」と口早に話しながら、お縫は上框《あが
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