心の一つもいうようになると、さあ鰌《どじょう》は遁《にげ》る、鰻《うなぎ》は辷《すべ》る、お玉杓子《たまじゃくし》は吃驚《びっくり》する。
 河岸は不漁《しけ》で、香のある鯛《たい》なんざ、廓《さと》までは廻らぬから、次第々々に隙《ひま》にはなる、融通は利かず、寒くはなる、また暑くはなる、年紀《とし》は取る、手拭は染めねばならず、夜具の皮は買わねばならず、裏は天地で間に合っても、裲襠《しかけ》の色は変えねばならず、茶は切れる、時計は留《とま》る、小間物屋は朝から来る、朋輩は落籍《ひく》のがある、内証では小児《こども》が死ぬ、書記の内へ水がつく、幇間《たいこもち》がはな会をやる、相撲が近所で興行する、それ目録だわ、つかいものだ、見舞だと、つきあいの雑用《ぞうよう》を取るだけでも、痛む腹のいいわけは出来ない仕誼《しぎ》。
 随分それまでにもかれこれと年季を増して、二年あまりの地獄の苦《くるしみ》がフイになっている上へ、もう切迫《せっぱ》と二十円。
 盆のことで、両親の小屋へ持って行って、ものをいう前にまず、お水《ひや》を一口という息切《いきぎれ》のする女《むすめ》が、とても不可《いけ》ません、済《すま》ないこッてすがせめてお一人だけならばと、張《はり》も意気地もなく母親の帯につかまって、別際《わかれぎわ》に忍泣《しのびなき》に泣いたのを、寝ていると思った父親が聞き取って、女《むすめ》が帰って明くる日も待たず自殺した。
 報知《しらせ》を聞くと斉《ひと》しく、女《むすめ》は顔の色が変って目が窪《くぼ》んだ、それなりけり。砂利へ寝かされるような蒲団《ふとん》に倒れて、乳房の下に骨が見える煩い方。
 肺病のある上へ、驚いたがきっかけとなって心臓を痛めたと、医者が匙《さじ》を投げてから内証は証文を巻いた、但し身附の衣類諸道具は編笠一蓋《あみがさいっかい》と名づけてこれをぶったくり。
 手当も出来ないで、ただ川のへりの長屋に、それでも日の目が拝めると、北枕に水の方へ黒髪を乱して倒れている、かかる者の夜更けて船頭の読経を聞くのは、どんなに悲しかろう、果敢《はか》なかろう、情《なさけ》なかろう、また嬉しかろう。
「妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来所経諸劫数無量百千万億載阿僧祇。」と誦《じゅ》するのが、いうべからざる一種の福音を川面《かわづら》に伝えて渡った、七兵衛の船は七兵衛が乗って漂々然。

       九

 蓬莱橋は早や見える、折から月に薄雲がかかったので、野も川も、船頭と船とを淡く残して一面に白み渡った、水の色は殊にやや濁《にごり》を帯びたが、果《はて》もなく洋々として大河のごとく、七兵衛はさながら棲息《せいそく》して呼吸するもののない、月世界の海を渡るに斉《ひと》しい。
「妙法蓮華経如来寿量品。」と繰返したが、聞くものの魂が舷《ふなばた》のあたりにさまようような、ものの怪《け》が絡《まつわ》ったか。烏が二声ばかり啼《な》いて通った。七兵衛は空を仰いで、
「曇って来た、雨返しがありそうだな、自我得仏来所経、」となだらかにまた頓着《とんじゃく》しない、すべてのものを忘れたという音調で誦《じゅ》するのである。
 船は水面を横に波状動を起して、急に烈《はげ》しく揺れた。
 読経をはたと留め、
「やあ、やあ、かしが、」と呟《つぶや》きざま艫《とも》を左へ漕《こ》ぎ開くと、二条《ふたすじ》糸を引いて斜《ななめ》に描かれたのは電《いなづま》の裾《すそ》に似たる綾《あや》である。
 七兵衛は腰を撓《た》めて、突立《つった》って、逸疾《いちはや》く一間ばかり遣違《やりちが》えに川下へ流したのを、振返ってじっと瞶《みつ》め、
「お客様だぜ、待て、妙法蓮華経如来寿量品第十六。」と忙《せわ》しく張上げて念じながら、舳《へさき》を輪なりに辷《すべ》らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小波《さざなみ》を打乱す薄月に影あるものが近《ちかづ》いて、やがて舷にすれすれになった。
 飛下りて、胴の間に膝をついて、白髪天頭《しらがあたま》を左右に振ったが、突然《いきなり》水中へ手を入れると、朦朧《もうろう》として白く、人の寝姿に水の懸《かか》ったのが、一|揺《ゆれ》静《しずか》に揺れて、落着いて二三尺離れて流れる、途端に思うさま半身を乗出したので反対の側なる舷へざぶりと一波《ひとなみ》浴《あび》せたが、あわよく手先がかかったから、船は人とともに寄って死骸に密接することになった。
 無意識に今|掴《つか》んだのは、ちょうど折曲げた真白《まっしろ》の肱《ひじ》の、鍵形《かぎなり》に曲った処だったので、
「しゃっちこばッたな、こいつあ日なしだ。」
 とそのまま乱暴に引上げようとすると、少しく水を放れたのが、柔かに伸びそうな手答《てごたえ》があった。
「どッこい。」
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