瓜の涙
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)年紀《とし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)加賀国|富樫《とがし》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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       一

 年紀《とし》は少《わか》いのに、よっぽど好きだと見えて、さもおいしそうに煙草《たばこ》を喫《の》みつつ、……しかし烈《はげ》しい暑さに弱って、身も疲れた様子で、炎天の並木の下に憩《やす》んでいる学生がある。
 まだ二十歳《はたち》そこらであろう、久留米絣《くるめがすり》の、紺の濃く綺麗《きれい》な処は初々《ういうい》しい。けれども、着がえのなさか、幾度も水を潜《くぐ》ったらしく、肘《ひじ》、背筋、折りかがみのあたりは、さらぬだに、あまり健康《じょうぶ》そうにはないのが、薄痩《うすや》せて見えるまで、その処々色が褪《あ》せて禿《は》げている。――茶の唐縮緬《めりんす》の帯、それよりも煙草に相応《そぐ》わないのは、東京のなにがし工業学校の金色の徽章《きしょう》のついた制帽で、巻莨《まきたばこ》ならまだしも、喫《の》んでいるのが刻煙草《きざみ》である。
 場所は、言った通り、城下から海岸の港へ通る二里余りの並木の途中、ちょうど真中処《まんなかどころ》に、昔から伝説を持った大《おおき》な一面の石がある――義経記《ぎけいき》に、……
[#ここから2字下げ]
加賀国|富樫《とがし》と言う所も近くなり、富樫の介《すけ》と申すは当国の大名なり、鎌倉|殿《どの》より仰《おおせ》は蒙《こうむ》らねども、内々用心して判官殿《ほうがんどの》を待奉《まちたてまつ》るとぞ聞えける。武蔵坊《むさしぼう》申しけるは、君はこれより宮の越《こし》へ渡らせおわしませ――
[#ここで字下げ終わり]
とある……金石《かないわ》の港で、すなわち、旧《もと》の名|宮《みや》の越《こし》である。
 真偽のほどは知らないが、おなじ城下を東へ寄った隣国へ越《こえ》る山の尾根の談義所村というのに、富樫があとを追って、つくり山伏の一行に杯を勧めた時、武蔵坊が鳴るは滝の水、日は照れども絶えずと、謡《うた》ったと伝うる(鳴《なる》は滝)小さな滝の名所があるのに対して、これを義経《よしつね》の人待石《ひとまちいし》と称《とな》うるのである。行歩《こうほ》健《すこや》かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我《くが》どのの姫君――北の方《かた》を、乳母《めのと》の十郎|権《ごん》の頭《かみ》が扶《たす》け参らせ、後《おく》れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽《ぬ》いて二三尺ばかりだけれども、広さおよそ畳を数えて十五畳はあろう、深い割目《われめ》が地の下に徹《とお》って、もう一つ八畳ばかりなのと二枚ある。以前はこれが一面の目を驚かすものだったが、何の年かの大地震に、坤軸《こんじく》を覆して、左右へ裂けたのだそうである。
 またこの石を、城下のものは一口に呼んで巨石《おおいし》とも言う。
 石の左右に、この松並木の中にも、形の丈の最も勝《すぐ》れた松が二株あって、海に寄ったのは亭々《ていてい》として雲を凌《しの》ぎ、町へ寄ったは拮蟠《きっはん》して、枝を低く、彼処《かしこ》に湧出《わきい》づる清水に翳《かざ》す。……
 そこに、青き苔《こけ》の滑《なめら》かなる、石囲《いしがこい》の掘抜《ほりぬき》を噴出づる水は、音に聞えて、氷のごとく冷やかに潔い。人の知った名水で、並木の清水と言うのであるが、これは路傍《みちばた》に自《おのず》から湧いて流るるのでなく、人が囲った持主があって、清水茶屋と言う茶店が一軒、田畝《たんぼ》の土手上に廂《ひさし》を構えた、本家は別の、出茶屋《でぢゃや》だけれども、ちょっと見霽《みはらし》の座敷もある。あの低い松の枝の地紙形《じがみなり》に翳蔽《さしおお》える葉の裏に、葦簀《よしず》を掛けて、掘抜に繞《めぐ》らした中を、美しい清水は、松影に揺れ動いて、日盛《ひざかり》にも白銀《しろがね》の月影をこぼして溢《あふ》るるのを、広い水槽でうけて、その中に、真桑瓜《まくわうり》、西瓜《すいか》、桃、李《すもも》の実を冷《ひや》して売る。……
 名代《なだい》である。

       二

 畠《はたけ》一帯、真桑瓜が名産で、この水あるがためか、巨石《おおいし》の瓜は銀色だと言う……瓜畠がずッと続いて、やがて蓮池《はすいけ》になる……それからは皆|青田《あおた》で。
 畑《はた》のは知らない。実際、水槽に浸したのは、真蒼《まっさお》な西瓜も、黄なる瓜も、颯《さっ》と銀色の蓑《みの》を浴びる。あくどい李の紅《あか》いのさえ、淡くくるくると浅葱《あさぎ》に舞う。水に迸《ほとばし》る勢《いきおい》に、水槽を装上《もりあが》って、そこから百条の簾《すだれ》を乱して、溝を走って、路傍《みちばた》の草を、さらさらと鳴して行《ゆ》く。
 音が通い、雫《しずく》を帯びて、人待石――巨石の割目に茂った、露草の花、蓼《たで》の紅《くれない》も、ここに腰掛けたという判官のその山伏の姿よりは、爽《さわや》かに鎧《よろ》うたる、色よき縅毛《おどしげ》を思わせて、黄金《こがね》の太刀も草摺《くさずり》も鳴るよ、とばかり、松の梢《こずえ》は颯々《さつさつ》と、清水の音に通って涼しい。
 けれども、涼しいのは松の下、分けて清水の、玉を鳴して流るる処ばかりであろう。
 三|間《げん》幅――並木の道は、真白《まっしろ》にキラキラと太陽に光って、ごろた石は炎を噴く……両側の松は梢から、枝から、おのが影をおのが幹にのみ這《は》わせつつ、真黒《まっくろ》な蛇の形を畝《うね》らす。
 雲白く、秀でたる白根《しらね》が岳の頂に、四時の雪はありながら、田は乾き、畠は割れつつ、瓜の畠の葉も赤い。来た処も、行《ゆ》く道も、露草は胡麻《ごま》のように乾《ひから》び、蓼の紅は蚯蚓《みみず》が爛《ただ》れたかと疑われる。
 人の往来《ゆきき》はバッタリない。
 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海《ありそうみ》から親不知《おやしらず》の浜を、五智の如来《にょらい》へ詣《もう》ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕《あらわ》して、列を造って行《ゆ》くとか聞く、海豚《いるか》の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並《おしなら》んで、動くともなしに、見ていると、地《じ》が揺れるように、ぬッと動く。
 見すぼらしい、が、色の白い学生は、高い方の松の根に一人居た。
 見ても、薄桃色に、また青く透明《すきとお》る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲《ほし》げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に――
 で、その石には腰も掛けず、草に蹲《うずくま》って、そして妙な事をする。……煙草《たばこ》を喫《の》むのに、燐寸《マッチ》を摺った。が、燃さしの軸を、消えるのを待って、もとの箱に入れて、袂《たもと》に蔵《しま》った。
 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑《なおざり》になし得ない道理は解《よ》めるが、焚残《もえのこ》りの軸を何にしよう……
 蓋《けだ》し、この年配《とし》ごろの人数《ひとかず》には漏れない、判官贔屓《ほうがんびいき》が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった――
「この松の事だろうか……」
 ――金石《かないわ》の湊《みなと》、宮の腰の浜へ上って、北海の鮹《たこ》と烏賊《いか》と蛤《はまぐり》が、開帳まいりに、ここへ出て来たという、滑稽《おかし》な昔話がある――
 人待石に憩《やす》んだ時、道中の慰みに、おのおの一芸を仕《つかまつ》ろうと申合す。と、鮹が真前《まっさき》にちょろちょろと松の木の天辺《てっぺん》へ這《は》って、脚をぶらりと、
「藤の花とはどうだの、下《さが》り藤、上《あが》り藤。」と縮んだり伸びたり。
 烏賊が枝へ上って、鰭《ひれ》を張った。
「印半纏《しるしばんてん》見てくんねえ。……鳶職《とび》のもの、鳶職のもの。」
 そこで、蛤が貝を開いて、
「善光寺様、お開帳。」とこう言うのである。
 鉈豆煙管《なたまめぎせる》を噛《か》むように啣《くわ》えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦《から》んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。

       三

「――あすこに鮹が居ます――」
 とこの高松の梢に掛《かか》った藤の花を指《ゆびさ》して、連《つれ》の職人が、いまのその話をした時は……
 ちょうど藤つつじの盛《さかり》な頃を、父と一所に、大勢で、金石の海へ……船で鰯網《いわしあみ》を曵《ひ》かせに行《ゆ》く途中であった……
 楽しかった……もうそこの茶店で、大人たちは一度|吸筒《すいづつ》を開いた。早や七年も前になる……梅雨晴の青い空を、流るる雲に乗るように、松並木の梢を縫って、すうすうと尾長鳥が飛んでいる。
 長閑《のどか》に、静《しずか》な景色であった。
 と炎天に夢を見る様に、恍惚《うっとり》と松の梢に藤の紫を思ったのが、にわかに驚く! その次なる烏賊の芸当。
 鳶職《とび》というのを思うにつけ、学生のその迫った眉はたちまち暗かった。
 松野謹三、渠《かれ》は去年の秋、故郷《ふるさと》の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途《しゅっと》に窮するため、拳《こぶし》を握り、足を爪立てているのである。
 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米|薪《まき》さえ覚束《おぼつか》ない生活の悪処に臨んで、――実はこの日も、朝飯《あさ》を済ましたばかりなのであった。
 全焼《まるやけ》のあとで、父は煩って世を去った。――残ったのは七十に近い祖母と、十ウばかりの弟ばかり。
 父は塗師職《ぬししょく》であった。
 黄金無垢《きんむく》の金具、高蒔絵《たかまきえ》の、貴重な仏壇の修復をするのに、家に預ってあったのが火になった。その償いの一端にさえ、あらゆる身上《しんしょう》を煙《けむ》にして、なお足りないくらいで、焼あとには灰らしい灰も残らなかった。
 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。――
 十日ばかり前である。
 渠《かれ》が寝られぬ短夜《みじかよ》に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母《としより》の影が見えぬ……
 枕頭《まくらもと》の障子の陰に、朝の膳《ぜん》ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝《きも》まで寒くした。――大川も堀も近い。……ついぞ愚痴《ぐち》などを言った事のない祖母《としより》だけれど、このごろの余りの事に、自分さえなかったら、木登りをしても学問の思いは届こうと、それを繰返していたのであるから。
 幸《さいわい》に箸箱《はしばこ》の下に紙切が見着かった――それに、仮名《かな》でほつほつと(あんじまいぞ。)と書いてあった。
 祖母《としより》は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿《わらじばき》で、松任《まっとう》という、三里隔った町まで、父が存生《ぞんしょう》の時に工賃の貸がある骨董屋《こっとうや》へ、勘定を取りに行ったのであった。
 七十の老《としより》が、往復六里。……骨董屋は疾《とう》に夜遁《よに》げをしたとやらで、何の効《かい》もなく、日暮方《ひぐれがた》に帰ったが、町端《まちはずれ》まで戻ると、余りの暑さと疲労《つかれ》とで、目が眩《くら》んで、呼吸《いき》が切れそうになった時、生玉子を一個《ひとつ》買って飲むと、蘇生《よみがえ》った心地がした。……
「根気《こん》の薬じゃ。」と、そんな活計《くらし》の中から、朝ごとに玉子を割って、黄味も二つわけにして兄弟へ……
 萎《しお》れた草に露である。
 ――今朝も、その慈愛の露を吸った勢《いきおい》で、謹三がここへ来たのは、金石の
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