爪立てているのである。
 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米|薪《まき》さえ覚束《おぼつか》ない生活の悪処に臨んで、――実はこの日も、朝飯《あさ》を済ましたばかりなのであった。
 全焼《まるやけ》のあとで、父は煩って世を去った。――残ったのは七十に近い祖母と、十ウばかりの弟ばかり。
 父は塗師職《ぬししょく》であった。
 黄金無垢《きんむく》の金具、高蒔絵《たかまきえ》の、貴重な仏壇の修復をするのに、家に預ってあったのが火になった。その償いの一端にさえ、あらゆる身上《しんしょう》を煙《けむ》にして、なお足りないくらいで、焼あとには灰らしい灰も残らなかった。
 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。――
 十日ばかり前である。
 渠《かれ》が寝られぬ短夜《みじかよ》に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母《としより》の影が見えぬ……
 枕頭《まくらもと》の障子の陰に、朝の膳《ぜん》ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝《きも》まで寒くした。――大川も堀も近い。……ついぞ愚痴《ぐち》などを言った事のない祖母《としより》だけれど、このごろの余りの事に、自分さえなかったら、木登りをしても学問の思いは届こうと、それを繰返していたのであるから。
 幸《さいわい》に箸箱《はしばこ》の下に紙切が見着かった――それに、仮名《かな》でほつほつと(あんじまいぞ。)と書いてあった。
 祖母《としより》は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿《わらじばき》で、松任《まっとう》という、三里隔った町まで、父が存生《ぞんしょう》の時に工賃の貸がある骨董屋《こっとうや》へ、勘定を取りに行ったのであった。
 七十の老《としより》が、往復六里。……骨董屋は疾《とう》に夜遁《よに》げをしたとやらで、何の効《かい》もなく、日暮方《ひぐれがた》に帰ったが、町端《まちはずれ》まで戻ると、余りの暑さと疲労《つかれ》とで、目が眩《くら》んで、呼吸《いき》が切れそうになった時、生玉子を一個《ひとつ》買って飲むと、蘇生《よみがえ》った心地がした。……
「根気《こん》の薬じゃ。」と、そんな活計《くらし》の中から、朝ごとに玉子を割って、黄味も二つわけにして兄弟へ……
 萎《しお》れた草に露である。
 ――今朝も、その慈愛の露を吸った勢《いきおい》で、謹三がここへ来たのは、金石の港に何某《なにがし》とて、器具商があって、それにも工賃の貸がある……懸《かけ》を乞いに出たのであった――
 若いものの癖として、出たとこ勝負の元気に任せて、影も見ないで、日盛《ひざかり》を、松並木の焦げるがごとき中途に来た。
 暑さに憩うだけだったら、清水にも瓜にも気兼《きがね》のある、茶店の近所でなくっても、求むれば、別なる松の下蔭もあったろう。
 渠《かれ》はひもじい腹も、甘くなるまで、胸に秘めた思《おもい》があった。
 判官の人待石。
 それは、その思を籠《こ》むる、宮殿の大なる玉の床と言っても可《よ》かろう。

       四

 金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向くと、陽春三四月の頃は、天の一方をぽっと染めて、銀河《あまのがわ》の横たうごとき、一条《ひとすじ》の雲ならぬ紅《くれない》の霞が懸《かか》る。……
 遠山の桜に髣髴《ほうふつ》たる色であるから、花の盛《さかり》には相違ないが、野山にも、公園にも、数の植わった邸町《やしきまち》にも、土地一統が、桜の名所として知った場所に、その方角に当っては、一所《ひとところ》として空に映るまで花の多い処はない。……霞の滝、かくれ沼、浮城《うきしろ》、もの語《がたり》を聞くのと違って、現在、誰の目にも視《なが》めらるる。
 見えつつ、幻影《まぼろし》かと思えば、雲のたたずまい、日の加減で、その色の濃い事は、一斉《いっとき》に緋桃《ひもも》が咲いたほどであるから、あるいは桃だろうとも言うのである。
 紫の雲の、本願寺の屋の棟にかかるのは引接《いんじょう》の果報ある善男善女でないと拝まれない。が紅の霞はその時節にここを通る鰯売《いわしうり》鯖売《さばうり》も誰知らないものはない。
 深秘な山には、谷を隔てて、見えつつ近づくべからざる巨木名花があると聞く。……いずれ、佐保姫の妙《たえ》なる袖の影であろう。
 花の蜃気楼《しんきろう》だ、海市《かいし》である……雲井桜と、その霞を称《たた》えて、人待石に、氈《せん》を敷き、割籠《わりご》を開いて、町から、特に見物が出るくらい。
 けれども人々は、ただ雲を掴《つか》んで影を視《なが》めるばかりなのを……謹三は一人その花吹く天《そら》――雲井桜を知っていた。
 夢ではない。……得《え》忘るまじく可懐《なつか》しい。ただ思うにさえ、胸の時めく里である。
 こ
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