の年の春の末であった。――
 雀を見ても、燕《つばくろ》を見ても、手を束《つか》ねて、寺に籠《こも》ってはいられない。その日の糧《かて》の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知れているのに、跫音《あしおと》にも、けたたましく驚かさるるのは、草の鶉《うずら》よりもなお果敢《はか》ない。
 詮方《せんかた》なさに信心をはじめた。世に人にたすけのない時、源氏も平家も、取縋《とりすが》るのは神仏《かみほとけ》である。
 世間は、春風に大きく暖く吹かるる中を、一人陰になって霜げながら、貧しい場末の町端《まちはずれ》から、山裾《やますそ》の浅い谿《たに》に、小流《こながれ》の畝々《うねうね》と、次第|高《だか》に、何ヶ寺も皆日蓮宗の寺が続いて、天満宮、清正公《せいしょうこう》、弁財天、鬼子母神《きしぼじん》、七面大明神、妙見宮《みょうけんぐう》、寺々に祭った神仏を、日課のごとく巡礼した。
「……御飯が食べられますように、……」
 父が存生《ぞんしょう》の頃は、毎年、正月の元日には雪の中を草鞋穿《わらじばき》でそこに詣《もう》ずるのに供をした。参詣《さんけい》が果てると雑煮を祝って、すぐにお正月が来るのであったが、これはいつまでも大晦日《おおみそか》で、餅どころか、袂《たもと》に、煎餅《せんべい》も、榧《かや》の実もない。
 一《ある》寺に北辰《ほくしん》妙見宮のまします堂は、森々《しんしん》とした樹立《こだち》の中を、深く石段を上る高い処にある。
「ぼろきてほうこう。ぼろきてほうこう。」
 昼も梟《ふくろう》が鳴交わした。
 この寺の墓所《はかしょ》に、京の友禅とか、江戸の俳優|某《なにがし》とか、墓があるよし、人伝《ひとづて》に聞いたので、それを捜すともなしに、卵塔《らんとう》の中へ入った。
 墓は皆暗かった、土地は高いのに、じめじめと、落葉も払わず、苔《こけ》は萍《うきぐさ》のようであった。
 ふと、生垣を覗《のぞ》いた明《あかる》い綺麗な色がある。外の春日《はるび》が、麗《うらら》かに垣の破目《やれめ》へ映って、娘が覗くように、千代紙で招くのは、菜の花に交《まじ》る紫雲英《げんげ》である。……
 少年の瞼《まぶた》は颯《さっ》と血を潮《さ》した。
 袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑《つ》かれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路《みち》は、飛々《とびとび》の草鞋のあと、まばらの馬の沓《くつ》の形《かた》を、そのまま印して、乱れた亀甲形《きっこうがた》に白く乾いた。それにも、人の往来《ゆきき》の疎《まばら》なのが知れて、隈《くま》なき日当りが寂寞《ひっそり》して、薄甘く暖い。
 怪しき臭気《におい》、得《え》ならぬものを蔽《おお》うた、藁《わら》も蓆《むしろ》も、早や路傍《みちばた》に露骨《あらわ》ながら、そこには菫《すみれ》の濃いのが咲いて、淡《うす》いのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。
 馬の沓形《くつがた》の畠やや中窪《なかくぼ》なのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔《くろ》に敷いている。……真向うは、この辺一帯に赤土山の兀《は》げた中に、ひとり薄萌黄《うすもえぎ》に包まれた、土佐絵に似た峰である。
 と、この一廓《ひとくるわ》の、徽章《きしょう》とも言《いっ》つべく、峰の簪《かざし》にも似て、あたかも紅玉を鏤《ちりば》めて陽炎《かげろう》の箔《はく》を置いた状《さま》に真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。
 綺麗さも凄《すご》かった。すらすらと呼吸《いき》をする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。
 真赤《まっか》な蛇が居ようも知れぬ。
 が、渠《かれ》の身に取っては、食に尽きて倒るるより、自然《ひとりで》に死ぬなら、蛇に巻かれたのが本望であったかも知れぬ。
 袂《たもと》に近い菜の花に、白い蝶が来て誘う。
 ああ、いや、白い蛇であろう。
 その桃に向って、行《ゆ》きざまに、ふと見ると、墓地《はかち》の上に、妙見宮の棟の見ゆる山へ続く森の裏は、山際から崕上《がけうえ》を彩って――はじめて知った――一面の桜である。……人は知るまい……一面の桜である。
 行《ゆ》くに従うて、路は、奥拡がりにぐるりと山の根を伝う。その袂にも桜が充《み》ちた。
 しばらく、青麦の畠になって、紫雲英で輪取る。畔づたいに廻りながら、やがて端へ出て、横向に桃を見ると、その樹のあたりから路が坂に低くなる、両方は、飛々|差覗《さしのぞ》く、小屋、藁屋を、屋根から埋《うず》むばかり底広がりに奥を蔽《おお》うて、見尽されない桜であった。
 余りの思いがけなさに、渠は寂然《じゃくねん》たる春昼をただ一人、花に吸われて消えそうに立った。
 その日は、何事もなかった――もとの墓地を抜けて帰った――ものに憑《
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