つ》かれたようになって、夜《よ》はおなじ景色を夢に視《み》た。夢には、桜は、しかし桃の梢《こずえ》に、妙見宮の棟下りに晃々《きらきら》と明星が輝いたのである。
翌日《あくるひ》も、翌日も……行ってその三度《みたび》の時、寺の垣を、例の人里へ出ると斉《ひと》しく、桃の枝を黒髪に、花菜を褄《つま》にして立った、世にも美しい娘を見た。
十六七の、瓜実顔《うりざねがお》の色の白いのが、おさげとかいう、うしろへさげ髪にした濃い艶《つや》のある房《ふっさ》りした、その黒髪の鬢《びん》が、わざとならずふっくりして、優しい眉の、目の涼しい、引しめた唇の、やや寂しいのが品がよく、鼻筋が忘れたように隆《たか》い。
縞目《しまめ》は、よく分らぬ、矢絣《やがすり》ではあるまい、濃い藤色の腰に、赤い帯を胸高《むなだか》にした、とばかりで袖を覚えぬ、筒袖だったか、振袖だったか、ものに隠れたのであろう。
真昼の緋桃《ひもも》も、その娘の姿に露の濡色を見せて、髪にも、髻《もとどり》にも影さす中に、その瓜実顔を少《すこし》く傾けて、陽炎を透かして、峰の松を仰いでいた。
謹三は、ハッと後退《あとずさ》りに退《すさ》った。――杉垣の破目《われめ》へ引込むのに、かさかさと帯の鳴るのが浅間《あさま》しかったのである。
気咎《きとが》めに、二日ばかり、手繰り寄せらるる思いをしながら、あえて行《ゆ》くのを憚《はばか》ったが――また不思議に北国《ほっこく》にも日和が続いた――三日めの同じ頃、魂がふッと墓を抜けて出ると、向うの桃に影もない。……
勿体なくも、路々《みちみち》拝んだ仏神の御名《みな》を忘れようとした処へ――花の梢が、低く靉靆《たなび》く……藁屋はずれに黒髪が見え、すらりと肩が浮いて、俯向《うつむ》いて出たその娘が、桃に立ちざまに、目を涼しく、と小戻《こもどり》をしようとして、幹がくれに密《そ》と覗いて、此方《こなた》をば熟《じっ》と視《み》る時、俯目《ふしめ》になった。
思わず、そのとき渠《かれ》は蹲《しゃが》んだ、そして煙草《たばこ》を喫《の》んだ形は、――ここに人待石の松蔭と同じである――
が、姿も見ないで、横を向きながら、二服とは喫みも得ないで、慌《あわただ》しげにまた立つと、精々落着いて其方《そなた》に歩んだ。畠を、ややめぐり足に、近づいた時であった。
娘が、柔順《すなお》に尋常に会釈して、
「誰方《どなた》?……」
と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐《やまふところ》から、頭《つむり》へ浴びせて、大きな声で、
「何か、用か。」と喚《わめ》いた。
「失礼!」
と言う、頸首《えりくび》を、空から天狗《てんぐ》に引掴《ひッつか》まるる心地がして、
「通道《とおりみち》ではなかったんですか、失礼しました、失礼でした。」
――それからは……寺までも行《ゆ》き得ない。
五
人は何とも言わば言え……
で渠《かれ》に取っては、花のその一里《ひとさと》が、所謂《いわゆる》、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅《くれない》の霞に乗って、あまつさえその美しいぬし[#「ぬし」に傍点]を視《み》たのであるから。
町を行《ゆ》くにも、気の怯《ひ》けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、――誰も知るまい、――ただ一人、秘密の境を探り得たのは、潜《ひそか》に大《おおい》なる誇りであった。
が、ものの本の中《うち》に、同じような場面を読み、絵の面《おもて》に、そうした色彩に対しても、自《おのず》から面《おもて》の赤うなる年紀《とし》である。
祖母《としより》の傍《そば》でも、小さな弟と一所でも、胸に思うのも憚《はばか》られる。……寝て一人の時さえ、夜着の袖を被《かぶ》らなければ、心に描くのが後暗《うしろめた》い。……
――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密《ひそか》に据えようとしたのである。
成りたけ、人勢《ひとけ》に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。
その癖、傍《はた》で視《み》ると、渠が目に彩り、心に映した――あの※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石《おおいし》の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩《ふげんぼさつ》の勧進をするような光景であった。
渠は、空《くう》に恍惚《うっとり》と瞳を据えた。が、余りに憧《あこが》るる煩悩は、かえって行澄《おこないす》ましたもののごとく、容《かたち》も心も涼しそうで、紺絣《こんがすり》さえ松葉の散った墨染の法衣《ころも》に見える。
時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺《かます》の煙草入を懐中《ふところ》へ蔵《しま》う
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