と、静《しずか》に身を起して立ったのは――更《あらた》めて松の幹にも凭懸《よりかか》って、縋《すが》って、あせって、煩《もだ》えて、――ここから見ゆるという、花の雲井をいまはただ、蒼《あお》くも白くも、熟《じっ》と城下の天の一方に眺めようとしたのであった。
 さりとも、人は、と更《あらた》めて、清水の茶屋を、松の葉|越《ごし》に差窺《さしうかが》うと、赤ちゃけた、ばさらな銀杏返《いちょうがえし》をぐたりと横に、框《かまち》から縁台へ落掛《おちかか》るように浴衣の肩を見せて、障子の陰に女が転がる。
 納戸へ通口《かよいぐち》らしい、浅間《あさま》な柱に、肌襦袢《はだじゅばん》ばかりを着た、胡麻塩頭《ごましおあたま》の亭主が、売溜《うりだめ》の銭箱の蓋《ふた》を圧《おさ》えざまに、仰向けに凭《もた》れて、あんぐりと口を開けた。
 瓜畑を見透《みとお》しの縁――そこが座敷――に足を投出して、腹這《はらば》いになった男が一人、黄色な団扇《うちわ》で、耳も頭もかくしながら、土地の赤新聞というのを、鼻の下に敷いていたのが、と見る間に、二ツ三ツ団扇ばかり動いたと思えば、くるりと仰向けになった胸が、臍《へそ》まで寛《はだ》ける。
 清水はひとり、松の翠《みどり》に、水晶の鎧《よろい》を揺据《ゆりす》える。
 蝉時雨《せみしぐれ》が、ただ一つになって聞えて、清水の上に、ジーンと響く。
 渠は心ゆくばかり城下を視《なが》めた。
 遠近《おちこち》の樹立《こだち》も、森も、日盛《ひざかり》に煙のごとく、重《かさな》る屋根に山も低い。町はずれを、蒼空《あおぞら》へ突出た、青い薬研《やげん》の底かと見るのに、きらきらと眩《まばゆ》い水銀を湛えたのは湖の尖端《せんたん》である。
 あのあたり、あの空……
 と思うのに――雲はなくて、蓮田《はすだ》、水田《みずた》、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から湧《わ》いて地平線上を押廻す。
 冷《つめた》い酢の香が芬《ぷん》と立つと、瓜、李《すもも》の躍る底から、心太《ところてん》が三ツ四ツ、むくむくと泳ぎ出す。
 清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ迸《ほとばし》るのであろう。
 蒼蝿《ぎんばえ》がブーンと来た。
 そこへ……

       六

 いかに、あの体《てい》では、蝶よりも蠅が集《たか》ろう……さし捨《すて》のおいらん草など塵塚《ちりづか》へ運ぶ途中に似た、いろいろな湯具|蹴出《けだ》し。年増まじりにあくどく化粧《けわ》った少《わか》い女が六七人、汗まみれになって、ついそこへ、並木を来かかる。……
 年増分が先へ立ったが、いずれも日蔭を便《たよ》るので、捩《よじ》れた洗濯もののように、その濡れるほどの汗に、裾《すそ》も振《ふり》もよれよれになりながら、妙に一列に列を造った体《てい》は、率いるものがあって、一からげに、縄尻でも取っていそうで、浅間しいまであわれに見える。
 故あるかな、背後に迫って男が二人。一人の少《わか》い方は、洋傘《こうもり》を片手に、片手は、はたはたと扇子を使い使い来るが、扇子面に広告の描いてないのが可訝《おかし》いくらい、何のためか知らず、絞《しぼり》の扱帯《しごき》の背《せなか》に漢竹の節を詰めた、杖《ステッキ》だか、鞭《むち》だか、朱の総《ふさ》のついた奴《やつ》をすくりと刺している。
 年倍《としばい》なる兀頭《はげあたま》は、紐《ひも》のついた大《おおき》な蝦蟇口《がまぐち》を突込《つッこ》んだ、布袋腹《ほていばら》に、褌《ふどし》のあからさまな前はだけで、土地で売る雪を切った氷を、手拭《てぬぐい》にくるんで南瓜《とうなす》かぶりに、頤《あご》を締めて、やっぱり洋傘《こうもり》、この大爺《おおじじい》が殿《しっぱらい》で。
「あらッ、水がある……」
 と一人の女が金切声を揚げると、
「水がある!」
 と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏《ずつうこう》を貼《は》った顔を掉《ふ》って、年増が真先《まっさき》に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連《おんなれん》が茶店へ駆寄る。
 ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少《わか》いのが、続いて入りざまに、
「じゃあ、何だぜ、お前さん方――ここで一休みするかわりに、湊《みなと》じゃあ、どこにも寄らねえで、すぐに、汽船だよ、船だよ。」
 銀鎖を引張って、パチンと言わせて、
「出帆に、もう、そんなに間もねえからな。」
「おお、暑い、暑い。」
「ああ暑い。」
 もう飛ついて、茶碗やら柄杓《ひしゃく》やら。諸膚《もろはだ》を脱いだのもあれば、腋《わき》の下まで腕まくりするのがある。
 年増のごときは、
「さあ、水行水《みずぎょうずい》。」
 と言うが早いか、瓜の皮を剥《む》くように、
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